でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『馬賊王 小白竜 父子二代 ある残留孤児の絶筆秘録』

 それではここで、小白竜の当時の妻、「張孟声」について話すとしよう。彼女はまさに、あの深い霧に包まれた混迷の時代の女性であった。彼女は一九三九年、「無錫国学専科学校」の上海分校で学んだ。そして同じクラスで一番仲の良かった学友「馬国貞」と相談して、人生最大の、そしてお互いに正反対の「賭け」に出たのである。それはこうだ。馬国貞は、安徽省南部の中国共産党抗日軍主力「新四軍」に身を寄せた。対して張孟声は、日本人首領の率いる闇の巣窟、そう、あの「道理救済会」に入る道を選んだのだ。二人は完全に敵と味方に分かれた。そして二年後、上海で再開し、どちらの賭けが正解だったか明らかにしようという約束を交わしたのである。こうして年齢わずか十九歳、江蘇省無錫の有力素封家張家の長女「孟声」は、尚旭東の「新聞雑誌スクラップ係秘書」を勤めることになった。尚旭東の最初の妻は、日本北海道出身の「美代子」という女性だったが、北京の街に充満する粗製アヘンの臭い、生活様式も考え方も旧態依然で古くさい老若男女、毒気満々の社会を嫌い、中国の生活に馴染むことが出来なかった。また尚旭東の隠密行動の邪魔になることも多く、旭東の「三くだり半」(離別状)によって遂に二人は離婚、美代子はすぐさま帰国の途についた。だから旭東は、上海へやって来た時には独身だった。そして上海に来て一年と経たない一九四〇年、中国人秘書、李同夫婦のとりもちで、旭東は無錫に赴き、張孟声と厳粛かつ盛大な中国式結婚式を挙げたのである。この時、彼は齢四十を過ぎていたが、やはり大勢の親戚、友人、そして孟声の祖父母と祖父の第二夫人、父母と父の第二婦人、それぞれの面前で「九跪の大礼」(最高に鄭重な敬礼)を行った。この日本と中国、同文同種間の結婚式は当時の上海メディアによって大きく伝えられた。こうして張孟声は美代子の跡を継ぎ小日向白朗の合法的な二代目の妻となった。
 結婚して一年あまりが過ぎた一九四一年の十月八日、孟声は上海の宏仁医院で白朗のために、最初にして最後の息子を産み落とした。白朗は急いで病院に駆けつけ、おむつに包まれた息子を抱き上げると、その場に跪き神に感謝を捧げた。うれし泣きが声にならないほどの感激であった。彼は遂に「後継ぎ」を授かったのだ。そして早速命名した。これぞ即ち彼の一子、「小日向明朗」である。

P.17

輩(または輩份)・・・・・・世代の親等の面から見た一族内、及び代々親戚づきあいをしている間柄の長幼の序(中日大辞典 大修館)。白朗の上海時代の中国人秘書、李同氏の手記によると当時の上海青幇の輩について次のように記されている。即ち、
――青幇の輩份を明示するものは六行四字の詩、合計二十四個の「字」であり、その字がそれぞれの一代を表す。即ち二十四の輩がある。これを上の方から並べるとこうなっている。『圓(元)、明、心、理(礼)、大、通、悟、学、普、門、開、放、万、象、依、帰、羅、祖、真、伝、佛、法、玄、妙』。白朗の上海時代、第二十代の長老が、只一人ご存命で、その輩份は「礼(一説には「理」とも言われる)」の字である。輩份のそれから下は詩の文句の順序に従い、大、通、悟、学、の各代である。本稿中の青幇要人の輩份はそれぞれ次の通りである。徐鉄珊は第二十一代の「大」字輩、尚旭東即ち白朗は第二十二代「通」字輩、国民党の主要人物、蒋介石、何應欽、それに上海の黄金栄も全部「通」の輩を持っている。黄金栄と声量を争った杜月笙は第二十三代「悟」字輩である。青幇の輩份の規矩は特に厳しく、輩份が上級の人物と面会する時には、地に跪いて御挨拶を申し上げねばならず、お呼びする時も「老大爺」と尊称しなければならない。白朗の輩份は「通」で、その師匠は第二十一代の王約瑟である。青幇入門の儀式は「香堂」の祭壇の前で行われる。たくさんの先輩達が一堂に会し、本命師、引見師、伝道師の三人の師を立て、その主宰によって厳粛にとり行われる。その儀式は次の四段階である。即ち、「第一級 小香堂」「第二級 大香堂」「第三級 開善門」「第四級 閉善門」である。この中で「小香堂」は一番簡単だが敬礼は三十三回行わねばならない。「大香堂」は正式に青幇に入門したことを宣名する儀式で莫大な費用がかかる。これが「開善門」となると、上の三代、下の三代を全部招待しなければならず、費用は更に膨大なものになる。そしてこの開善門の儀式をやって初めて正式に青幇の弟子となったことが確定するのである。白朗は第三級の開善門の儀式を行って「通」の輩份が確定したが、最後の「閉善門」には参加したことが無い。しかしこの儀式はだんだんと簡素化され、当時の上海では一度に三十人、四十人の入幇式が許されていたのである。(以上、李同氏手記『闖蕩中華「小白竜」尚旭東的歴史功過與抱負』による)

P.20

白朗は、上海を離れるにあたり、「尚公館」の善後処理を全部夫人の張孟声に任せた。小日向夫人(張孟声女史)と言えば、江南の名家の出で、この時まだ二十歳を過ぎたばかりのお嬢様である。この深窓の箱入り娘が膨大な尚公館の善後処理をどうやてやり遂げるというのか。結果は散々たるものだった。彼女は、旭東の愛用車だけは何とか人を頼んで運び出したものの、金庫の中の金塊、現金を取り出すのもそこそこに、その他のものはほとんど何も持ち出せずに終わってしまった。だからこの尚公館終末の時、「あぶく銭」を稼いだ奴が何人何十人もいたのは間違いのないことだった。

P.60

 とりわけ酷かったのは、柳州地区の武宣県だ。定期市の立つ日の朝、革命委員会の処刑隊は、前もって調べておいた例の五類分子(反動分子とみなされている五種類の階層。即ち、地主、富農、反革命、右派、悪質分子を言う(中日大辞典 大修館)。)の家になだれ込み、一家全員、男女老幼の別なく全員を縛り上げ、混雑する市場に引っ張って来る。そして群集の目の前で刑を執行するのだ。鍬や鋤、或いは棍棒、めった打ちに打ちのめし打ち殺す。そして遂には、着衣を全部剥ぎ取り、身体を切り刻み、あらかじめ用意し、据え付けておいた大釜の湯の中にぶち込む。茹で上がった肉塊は、見物の連中に分け与えられ、その連中の口に入るのである。この大釜で煮られるのは、五類分子の本人だけではない。その配偶者、子女、果てはまだおむつの中の赤ちゃんまでもだ。人々は愚かにも、切り刻まれ、茹で上げられた屍体から、生殖器、乳房、心臓、肝臓までも持ち帰り、喜んで食べようとは・・・・・・、一体、どうなってしまったというのか。
 五類分子に認定された家、そうでなくても出身に問題のある家の者は、全員がビクビクと一日中逃げ廻り、身の置きどころが無い有様。何時なんどき、自分や家族が他人の家の食卓に並べられるかわからないのだ。何と惨たらしいことか! 悲しいことか! 世界人類が二十世紀、しかも六十年代という文明時代に入ったというのに、中国の革命的人間は、皿に載った同じ人間の肉を食べているのだ。こんな時にも毛沢東夫婦は、あの書斎の中で勝利の笑みを交わし、「無上の楽しみ」を味わっているというのか。

P.143

前半、小白竜の「伝奇的物語」、後半、著者の自伝となる。
著者は小白竜・小日向白朗の実子であり、毛沢東支配下の中国で辛酸に満ちた人生を歩んだ。不撓不屈、非常な努力家で、英才の人だったようである。

天地人とは「天の時、地の利、人の和」と聞き覚えてきた。
「天と闘いてその楽しみは尽きず、地と闘いてその楽しみは尽きず、人と闘いてその楽しみは尽きぬ」
毛沢東は、そんな言葉を残したそうだ。