でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『平和の失速(三)』

 じつは、一行が汽車でブレスト・リトウスクにむかうべく、ペテルブルクのワルシャワ駅に自動車を走らせた段階では、随員スタスホフは存在しなかった。
 すると、誰かが、農民代表が参加していないのは手落ちではないか、と発議した。もっともだが、ひき返して人選する余裕はない。
 車が街角をまわると、雪道をとぼとぼ歩く老人の姿が見えた。一見して貧農民と判定できる風体である。
「立派な農民だ。彼にしよう」
 主席委員ヨッフェが車を止めさせ、駅にいくところだ、という老人をのせた。
 老人はやがてワルシャワ駅に向かうのに気づき、自分はモスクワに行くためにネフスキー駅に行くのだ、と抗議したが、方向転換するわけにはいかない。
 委員カーメネフが、質問した。
「同志、あんたの所属政党はどこかね」
「旦那、いや同志。むろん、社会民主労働党です。私の村全体がそふですよ」
ボルシェヴィキか、メンシェヴィキか」
 委員カーメネフの鋭い眼光に気づき、老農スタスホフはボルシェヴィキだと応え、これからドイツと和平するために一緒に来てくれ、お礼はする、という委員カーメネフの言葉にうなずいた。
 農民代表随員スタスホフ――の誕生である。

P.16

 この「戦争決意」の背景には、参謀次長田中義一中将の判断が位置する。
 中将は陸軍きっての「知露派」であり、日露戦争前にロシア軍隊に入隊し、自身と父親の名前をつらねて「ギイチ・ノブスケヴィチ・タナカ」のロシア名を名乗って、ロシア事情を探査した。
 革命家V・レーニンにも会ったといわれる。

P.25

ヤポンスキー(日本人)よ。われわれは国旗を失つた。レーニンの赤旗なんか樹てられるか!ヤポンスキーよ、国旗を失った悲しみをわかってくれるか」
 民兵長は、日ロ戦争前にブラゴエシチェンスクで発生したロシア軍による中国人虐殺事件にふれて、歎息した。
「ロシアの神はロシア民衆に贖罪を求めている・・・・・・歴史は公平だ。われわれが苦しむのは当然の裁きかもしれない」
 そして、別れを告げた民兵長は、少佐に述べた。
ヤポンスキーよ。革命を起こしてはならぬ。いや、革命が起こるやうな政治をしてはならぬ」

P.36

 じつは、米国の上層部は、これまでに述べたように、民主政体を求めるロシア革命には同情しながら、レーニン政府にたいする見方では二派にわかれていた。
 その一派は、「無知無能な大衆」におるボルシェヴィキ政府は、いくら独裁体制を打倒したといっても、まともな民主制を成就できるものではない、とみる。
 いわば「精神病院の悪夢」にひとしく、米国としてはその自滅を期待すべきだ、という考え方であり、国務長官R・ランシングに代表される。
 この”心情派”にたいして、大統領顧問E・ハウス大佐を中心とする財界有力者たちの「実利派」は、ボルシェヴィキ政権も民主化革命の「必然的産物」であり、米国の国益を考えれば、同政権を育成してロシア市場への足場を確保すべきだ、と、主張する。

P.48

 ところで――
 急ピッチで進められたシベリア出兵は、予想外の国内騒擾と同時進行の形をとっていた。
 いわゆる「米騒動」――である。
 騒動は、この日八月三日、午後七時ごろ、富山県中新川郡西水橋町の海岸に集まった約百七、八十人の漁師の女房たちによって発起された。
 これまでに述べたように、世界大戦は日本に好景気をもたらしたが、同時に金融緩慢、インフレもまねき、物価の騰貴のために米の生産コストも高くなり、地主の米の売りおしみと米の投機熱もさそい、米価はじりじりと上昇していた。
 前年までは一升二十銭未満であったものが、今年(大正七年)にはいると二月には二十五銭台、六月には二十八銭台になった。
 そして、七月中旬にシベリア出兵が「本決り」だとの噂が流れると、軍隊の需要で米不足になるとの思惑から、米価は三十銭台に突入し、たちまち四十銭の声を聞くようになった。
 米一升四十銭は、一般市民の家計に大きくひびく。
国民新聞』がつたえる栃木県喜連川町の小学校長夫人「打明け話」によると、夫君の月給は二十九円。
 夫妻と子供五人が必要とする飯米は、一ヶ月に「五斗一升」なので、一升四十銭であれば米代だけで月約二十円の支出になる。残り九円で副食物、光熱費、生活用品、教育費などをまかなわなければならない。
 毎月二円の赤字は必須であり、「一汁一菜はおろか塩をなめるだけ」の日々をかさねざるをえない・・・・・・というのである。
 米価は七月末には、一升五十銭をこえはじめた。

P.108

 浅草公園組は、上野公園にむかうものと吉原遊郭に進むグループにわかれた。
 上野隊は、広小路に充満して警官隊と対峙しつつ、付近の建物「三十二軒」を破壊した。
 吉原隊は、道に積みあげてあった土管、煉瓦を八方に投げ、「角海老楼」、「大文字楼」その他妓楼六十軒、料理店三軒、民家六軒、計六十九軒に被害を与えた。
 妓楼・海老屋では、娼妓川島サダによると、若い暴徒が乱入して、同女の「二円八〇銭入り蟇口」を強奪し、さらに遊客片岡秀一を追い出してその羽織を持ち去ろうとした。
「お客の羽織だから、それだけは堪忍してくれろ」と、娼妓サダが「哀訴」したが、男はサダを「蹴倒し」たうえ、サダの腰帯も奪い、それで襷がけして飛び出すと、近所の酒店で「四合入正宗一本」を盗み、お前も呑め、と群衆の一人に手渡したところ、相手が私服刑事のため逮捕された(註・同人は鼻緒職人金子太吉と名のった、と警察記録はいう)。

P.132

「いかなる退位勧告も拒否する。皇帝の義務は帝位に留まることである」
 閣議がひらかれたが、多くの閣僚は、帝制の維持の必要や皇帝への忠誠を説くだけで、そのための対策は述べない。
 首相は、この日朝に予定した大本営行きを中止したことを悔やむとともに、あらためて退位を勧告する決意を固めた。
 午後十時少し前、首相は皇帝に退位をすすめるべく、大本営に電話したが、取次ぎ役の侍臣は、皇帝はすでに就寝した、と応えた。
 首相は、皇帝を起こしてくれ、といい、叫んだ。
「もし明朝の新聞で退位が発表されなければ、もはや叛乱の防止は不可能になる」
 これは「仮説でも誇張」でもない、「冷厳な事実」だ、と首相は強調し、皇帝の起床を要望したが、侍臣は静かに返事した。
「陛下はおやすみです。陛下をお騒がせすることは出来ませぬ」
 受話器を置き、天井を仰いで、首相はうめいた。
「歴史は、皇帝に眠りを与へ、ドイツに死を与へた」

P.248

 十一月十日――
 皇帝退位のニュースは、ドイツ全土にひろまった。
 戦場の野戦病院に収容されている伍長A・ヒトラーも、従軍牧師に教えられた。
「私は泣いた。母親の墓前で流したときいらい、二度目の涙であった」
 伍長ヒトラーは、のちに著書『わが闘争』で、そう回想するが、涙のあとに悲憤がおそってきた。
「兵士たちは、祖国の敗北のために死んだのか・・・・・・旧いドイツはかくまで無価値なものであったのか・・・・・・我々は我々の歴史に義務を負ってゐないのか・・・・・・このような事実をどうして未来に引渡すことができやうか」
 伍長ヒトラーは、ドイツを敗北に導き帝制を崩壊させたのは、「マルクス主義者」と「ユダヤ人」だと判決し、彼らの打倒とドイツの復活のために身を捧げる決心をかためた。
「私は、政治家にならう」
 伍長ヒトラーの決意と参謀次長グレーナ―中将の「論理」とを結合させると、戦後のドイツの行方がおぼろげな姿を見せるような感じをうけるが、伍長ヒトラーがその想いどおりに政治家になり、国家をどのように指導していくかは、後年のことである。

P.252

 既出した命令の撤回または修正をすると中央の「面子」が損われる、という「官僚根性」に由来するのか・・・・・・現実認識の「脳力」を欠くためなのか・・・・・・。

P.670

 第三巻にてようやく、伊集院少尉が派兵された軍事行動の場面となった。
 第一次世界大戦を直接の起因とするシベリア出兵は、日露戦争が十数年前、満州事変が六年後となる時期に発生した。
 政変と敗戦でどん底に墜ちたドイツは十数年で失地回復の実力を蓄え、ソビエトはそれを迎え撃つ政体を確立する。
 時代の流れが、やけにはやい。

読物 『平和の失速(二)』
読物 『平和の失速(一)』