でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

いちばん詳しい「北欧神話」がわかる辞典

北欧神話はざっくりと知っている程度で、いろいろと知らないような気がしたので何か読んでみることにした。内容を云々できる知識はないが、本書は北欧神話を網羅的に扱っており、ざっくりとしか持っていない知識を補完するのにちょうど良いと思える。

本書はまた、フィンランドの神話である「カレワラ」についても紹介している。魔女ロウヒの名はどこかで聞いたことがあるような気がするが定かではない。フィンランド神話由来ということを自覚した。
「カレワラ」の主たる英雄は「老いて不抜なるワイナモイネン」というが、母たる女神から産まれたときすでに老いていたというユニークなヒーローで、求婚しては振られ続けている。
イリアス』や『オデュッセイア』、あるいはバビロニア神話に関する書籍を読んだとき、トールキンが創作した神話のエッセンスをそれらから感じられたが、「カレワラ」からは最も強くそれを感じた。というか、トールキンが創作した神話には非キリスト教的なものならなんでも含まれているような気がする。
気のせいかもしれないが、ワイナモイネンのイメージはゲド的でもあるし、ウォーロック的でもある。カレワラ神話の雰囲気は『イルスの竪琴』を思わせる。欧州で「カレワラ」が流行ったことがあったのだろうか。

砂と人類

コンクリートアスファルト、ガラス、シリコンチップ。
現代文明に欠かすことのできない資源としての砂を、本書は語っている。
砂はどこにでもある。そんなイメージがある。最も豊富な資源、本書もそう述べている。それが枯渇しつつあるという。

コンクリートアスファルト、建材として使用可能な砂の形には制限があるという。砂漠の砂は風による摩滅で丸く、これに適さない。川で取れる砂は適度に角があり、好ましい形をしているという。
ガラスやシリコンチップには石英のみ使用可能である。グレードがあり、石英であればよいというものではなく、高純度の石英が必要だ。石英以外のものに触れると台無しになるので、加工には高純度の石英で作った器を用い、さらに高純度な石英を投入して、シリコンウェハーを作る。イレブンナインの純度が必要だという。

掘削にも、砂は用いられている。シェールガスの掘削は砂と水が必要で、というのも、水の浸透を助けさせるために岩盤の亀裂に砂を紛れ込ませるためで、やはり砂漠の砂は適さない。

砂浜は人類の知恵で消滅しつつある。ダムや護岸設備などの働きによって、自然に供給される筋道が断たれてしまったという。砂浜を保護する措置を養浜というらしい。世界各国の著名な観光地も、それで観光資源たる砂浜を維持しているという。

昨今読んだ本の中では『サカナとヤクザ』、それとなんとなく印象がかぶる。知らなかったことを知った喜びと、知ったことによるがっかり感の得具合であろうか。

 

潜行三千里

著者のイメージは安彦良和画のアレが強いので、それが読書に影響を与えたかもしれない。
戦争終結直後の中国の様子、情勢を知るにはよい書だとしても、だから著者が潜行を志した理由が表面的なものにしか見えない。著述の通りの行動をしているならば、中国との懸け橋たらんとし、国民党に加担して共産党を制しようとしたことに偽りはないようである。
しかしながら、Wikipediaなどに記されている帰国した後の動静を見るにやはり、戦犯として裁かれることを忌避したための行動ではないかと読めてしまう。

著者の視点からは共産党の軍事行動、支配は巧みであり、一方で国民党の腐敗が強調され、それを故とする民衆からの憎悪が描かれている。
『マオ―誰も知らなかった毛沢東』もそうだが、著者のバイアスがどれだけかかっているか不明な書物は慎重に読まねばならないと思えた。

平壌「十五号官邸」の抜け穴

十年近くたって、ぼちぼちと手をつけ始めた亡父の蔵書より。

タイトルはキャッチ―。小節を割いて紹介されている程度で、本題では全くなく、この本になんでこのタイトルのかついたのかと考えれば、そう結論付けるしかない。見識を全く持たないので、タイトルの持つ意味、その示すところがどれほどの価値を持つかは不明である。

金正男の母親が亡命するくだりが焦点と見受けられる。著者はその人物とは甥にあたる関係だが、歴史の間近な傍観者でしかない。亡命が成功したのかどうか不明で、きちんと結んでいないあたり、物語であるならば不完全というしかないので、著者の見聞によるというあたりには信憑性はあるのかもしれない。

金正男氏が何故あのような死に方をしたのか遠因を知る手掛かりになるのかと思ったのだが、想像を掻き立てられただけに終わった。

もものかんづめ

さくらももこ氏の作品に触れた機会は少なく『ちびまる子ちゃん』を数話ほど、「TVに映っていたので見た」程度である。氏の訃報を知った時、追悼がいくつかTLに流れてきた。そこで本書を知り、これも機会であろうと弔意をもって読んでみることにした。

なじみの少ない作家の作品は、敷居が高いものである。手にとってからでさえ。
思うように読み進めることができないことがある。エッセイはたいてい面白く読めるという印象を持っているが、そうでない場合もある。本書については慣れるにつれ、後半に至って読むことに抵抗を覚えなくなったが、読み物としては好みではない。

巻末に土屋賢二という方との対談が記載されており、そこにおいて見た氏の切れ味に、底の知れなさを垣間見たような気がしている。

風の帰る場所

 押井守

――『攻殻機動隊』も観ていらっしゃらないんですか?

「観てないです」

――押井守さんから、宮崎さんについては、いろいろ面白いコメントをいただいているんですけど、宮崎さんからはどうなんですか?

「いや、なにを犬に狂ってるんだ、バカってね(笑)」

――(笑)よく知ってますね。

「知ってますよ。人の犬に悪口言ってきてね、それで、喧嘩したんですから(笑)。汁かけ飯がなぜ悪いってね。僕は汁かけ飯で犬飼ってたんですよ。それで十七年も生きましたからね。だけど、押井守は、なんか犬のために伊豆に引っ越ししたでしょう。家の周りに犬の通路作ったりしてね、そのバカ犬をさ、雑菌に対する抵抗力がないから外に出さないとかね。それを聞いたとき、なにやってんだこいつ、って思ったんですよ。大体、ブリーダーってみんな胡散臭い顔してるでしょ(笑)。押井さんに言ったんですけどね、『そんなに犬が好きなら、愛犬物語作れ』って。くだらないもの作ってないでね。人間の脳みそが、電脳がどうのこうのなんて、そんなんじゃなくてね」

――観てるじゃないですか(笑)。

「いや、観てないんですけど。わかるんですよ。士郎正宗の『攻殻機動隊』は読みましたもん。これ全部入らないから、どうせ適当に全部意味ありげに語るんだろうって。意味ありげに語らせたら、あんなに上手な男いないですからね(笑)。『機動警察パトレイバー2 the Movie』のときなんか、まいりましたもん。なんか意味ありげだなあと思っていたら、『しょせん意味などないんだ』ってね(笑)。おかしいなあと思うと、先回りして言うんですよね。実に語り口は巧妙なんですけど、要するに押井さんが言ってるのは、東京はもういいやってことなんだろう、だから、伊豆に行って犬飼うんだろうって。自分が短足だからって、短足の犬飼うなってね。そのバカ犬がさ、家の中にウンコとかおしっことかしてると聞くと嬉しくてね」

――しかし、押井守宮崎駿評と、宮崎駿押井守評ほど面白いものはないですね。

「いや、基本的に友人ですからね。だから、元気に仕事やってほしいんですけどね。でも、押井さんはね、本当はものすごく生活を大事にする人で、彼が作ってるような形而上学的なとこで生きる人間じゃないと思うんですよ。もう無理やり七〇年で止めちゃってね、ぐずぐず言っているけど、本当はものすごく健全で、潔癖な男なんですよね」

――鋭いですね。

「そんなこともうちゃんとわかりますよ。朝早く起きて、夜は寝るもんだってね。そのくせジブリスターリン主義だとか、いろんなこと言うんですね(笑)」

P.172

「実写は楽ですからね。ビールが美味しいでしょ、一日労働するから。そうするとそれで充実しちゃうんですよ、どうも実写の人を見てると、そういう感じがするんですよ」

――押井さんも一緒ですかね。

「うーん、押井さんよりもずっと庵野のほうが才能ありますよね。押井さんの実写はもう、あれ学園祭向きのフィルムから一歩も出ないから。あれ反復脅迫だと思うんですよ。完成品を作っちゃいけないっていうね。押井さんの実写によくスポンサーがつくなと思うだけで(笑)」

――僕も言いますけどね、「おまえ絶対やめたほうがいい」って。カミさんもそう言ってるって言ってます(笑)。

P.206

・・・例えば、あそこ(腐海)の砂っていうのは人間の日常生活の廃棄物が生んだセラミックスの破片でできてる砂なんだっていうようなことを言うと、高畑勲は喜ぶわけですよね。でもどこにも出てこないわけですよ。そんなこと映画の中で言ってる暇がないんです(笑)。そうすると僕はそういうこと落っことすんですよ、これは映画を損ねるからって。でも、高畑勲はそういうことを無理矢理にでも入れるんですよね。『おもひでぽろぽろ』でも、この風景は百姓が作ったんだとかね。なんでそんな共産党の宣伝カットみたいなのを入れるんだろうと僕は思うわけです(笑)。そういう、なんか啓蒙したいという意識は、実のところ僕はあんまりなくて、やっぱり絵草紙派の人間なんですよね。どうもやっぱり人に喜んでもらえないと存在理由がないと思い込んでいて、だから人が喜ばなくてもいいものを作るんだっていうふうにはなかなかなれない人間ですね。それが自分の中で、いつも葛藤としてあることはもう間違いないです」

P.237

 

コロナ由来で図書館が閉鎖され、次に読もうと思っていたものが手に入らず、積読のうちから何か読もうと思ったとき、『ミヤザキワールド』を読み終えたからだろう、本書を選んだ。

読書態勢で読むものではなかったのかもしれない。風呂で読むくらいがちょうどよかったのかもしれない。『ミヤザキワールド』でアレコレとその気になったり、緩和されたりしたからかもしれない。宮崎駿という人物をあまり知らないため、本書の序盤がきつかったにすぎないのかもしれない。

序盤を超えて、たぶん、上に引用したあたりからがぜん面白くなった。
押井氏は好きな作家だが、度し難い作家でもあると感じていて、それを肯定されたような気になれたからかもしれない。

近頃エヴァ序破Qを見たのだが、次回予告が嘘っぱちなのはさておき、Qにおけるシンジとカントクのシンクロ率400%具合はもう、作品として評価するべき内容ではなくなってしまったと思える。一方的に突きつけられる主張をああそうですかと聞き流し、ここの演出はすごいですね、話はアレだけど、とか思いながら口にする必要もない作品となってしまった。ファイナルは、気が向いたら見るかもしれない。
そしてまた、碇ゲンドウとは宮崎駿なのだなあと、本書を読んでそんな印象も抱かされた。庵野氏の師匠筋であろう人物ならば、エヴァという作品に自分宛ての私信が含まれていると感じられたのかもしれない。

夢の宇宙誌

 ところで、たまたま古新聞の切り抜きを集めたスクラップ・ブックをぱらぱら繰っていると、このわたしの直観をまさに裏書するような、ある科学的な仮説を立てた学者の見解を紹介した記事が偶然にも出てきて、わたしの目には、その古新聞の小さな囲み蘭に否応なく吸いつけられてしまったのだ。すなわち、そこに見出されたロイター通信の報道によれば、「米国イリノイ大学工学部のフェルスター教授は、このほど米国の科学雑誌”サイエンス”に寄稿した論文で、あと六十六年後の西暦二〇二六年に、人類最後の日がやってくるだろうと予言した」というのである。
 同博士は人口増加について数学的計算をした結果、かかる結論を出したもので、問題の西暦二〇二六年には、人口はほとんど無限にまで殖え、人間はみずからを殺戮せざるを得ない状況にまで追いつめられる。博士の説によると、人類は飢えや放射能や、病気や天災などでむやみに滅びるものではなく、むしろ逆に、人口が増えすぎて押し合いへし合いの結果として絶滅する、というのである。
 ――とすれば、この人類の怖ろしい未来風景は、わたしが先ほど述べた、レミングや羚羊などの狂気の運命をそっくりそのまま模倣したものにほかならず、より高次の超越的な目から見れば、六十六年後の人間の運命も、全く動物たちの盲目的な行動と相似の形態をあらわすものと言えはしないだろうか。いかにも小動物の集団的自殺のイメージには、人類絶滅のイメージがひな形として隠されていたのであった。

P.228

 昭和五十九年初版、同六十三年七版発行の河出文庫版を入手したのは、高校生の時だったか、大学生の時だったか。数十年ぶりに読んでみれば、なんとなく読んだ記憶しか蘇らない。当時の自分に響くものがあまりなかったのだろう。

断捨離にて見いだし、まるで覚えていないので処分する前に再読する気になった。
読み返してみても、知識の蒐集としては興味深くもあるが、やはり響いてくるものはない。引用した内容は、現在から六年後の未来を一九六〇年代に占ったもので、人口が単純増加をしていく未来予想図に微笑ましさを禁じ得ない。