でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

『古代の女性官僚: 女官の出世・結婚・引退』『毒が変えた天平時代:藤原氏とかぐや姫の謎』

『古代の女性官僚: 女官の出世・結婚・引退』

いわゆる「女官」は古代日本では官僚のありようを示していたが、次第に高貴な女性の側仕え、あるいは後宮仕えという存在になっていった。
天平時代あたりまでは、日本でも女性官僚はそれなりに存在したが、中央集権化が進んで中央と地方の結びつきがあまり重視されなくなり、次第に姿を変えていったという論。

『毒が変えた天平時代:藤原氏かぐや姫の謎』

正倉院には毒物も保存されていたことから、天平時代は毒物を用いたあれやこれやがあったのではないかという推論にいたり、かぐや姫の著者は誰かという筆者の妄想へと飛躍する。
証拠を丁寧に集めたうえでの推論ではなく、結論ありきの無理筋と受け止められる。当方はミステリ嫌い。こういう筋を通す物語が多いからだ。

 

2つの書を同時期に読んだのは偶然だが、奇しくも表裏ないしは補完するピースという位置づけになった。天平時代についてはガッコにおける歴史の授業程度の知識しかないので、読んでただ咀嚼するしかない。
前者については少なくともそんなふうだったが、後者を読んで、前者もうかつに飲み込んではいけないものだという感想に変わった。後者は上述の通りの内容なので、一説として解するのみ。

目に見えぬ侵略

他者を非難する文章というものは、読んでいて辛いものだ。それが同意できる内容であったとしても。本書についても、中国だからあるだろうなと思いつつも、やはり読みすすめることは難しかった。

幼少の頃、かつての中国圏文化は日本の長兄的位置づけであると自然に学び、なんとなく敬意を抱いていたように思う。
いつの頃からか、実に残念なことになってしまい、その念は失せた。

革命を志す人々は暴力を肯定する。歴史がそうであるからとして踏襲することを恥じない。踏みにじられたから相応に返すという考え方はわからなくもないが、無条件に同意することは難しい。実現した社会主義国家のほとんどすべてが独裁を結実したことを考えれば、なおさらに。

本書を契機にオーストリアは気付きを得たという。
資本主義の弱点をたくみにつく戦略は、指導者層とそれを取り巻く環境が変わらない限り、中国のような国家構造を持つ勢力にはうってつけのものだろう。資本主義国家にとっては他人事ではない。経済学()がうたうのは欺瞞でしかない。

明治維新の意味

太平洋戦争について考えたとき、そこに至る遠因はなにかと思い、いろいろ読んだ。まずは黒船来航にありという思いを抱き、次に大航海時代に遠因があると感じた。

その過程で黒船来航後の日本は、なんだかんだでうまくやってきたんじゃないかと思うようにもなった。理想を抱いて・・・かどうかはわからないが、革命という美名のもとに権力を勝ち取った人々が独裁に走った例が世界には枚挙に暇がないというのに、そうはならなかったという意味においても。
戊辰戦争は避けることもできたものであり、薩長がしかけた権力闘争であるという指摘は、個人的には新しい知見だった。それでも、維新をなした人々が私的な独裁に陥らなかったことは特筆すべきことだろう。

これまで点で抱いていた印象を、本書は大きく埋めてくれた。ぶれることのない著述で、とても読みやすい。

世界史を大きく動かした植物

タイトルのためであろう、序盤、小さくない違和感を得た、主語がものすごく大きな主張がある。

植物について特に詳しいわけではないので、知見を得たことについては真偽を問うこともできないが、上記のことを除いてはまあ楽しめたといえる。

ケルトの想像力

あちこちに掲載された雑誌記事をまとめたもの。そのためか、章ごとに文体が統一されていない。
誤字がある。図の画素が荒い。モアレが出ている。
など、体裁に不満がある。

文字を持たない文化であったケルトに関することごとを、残された芸術作品から著者が得たインスピレーションをもって断定してしまっている箇所があり、それでいいの?と感ずる。
掲載された雑誌などの性格によるのかもしれないが、一部、知見を持たない読者おいてけぼりの内容がある。
これらを含まない箇所は、知識を広げる書物として楽しめた。語り口調において、塩野七生澁澤龍彦などを彷彿とさせる。

地図づくりの現在形

書評サイトでレビュアーが熱く語っていたので、あてられた。

かつてツーリングをよくしたころ、地図は必需品だった。スマホの黎明期にスマホのナビゲーションでツーリングしたこともあったが電池切れとの戦いで、数時間の連続使用が限界だった。モバイルバッテリーなどもまだ十分に普及していない時期、ツーリングの個人的電子化にはしばし時を要すると思ったものだ。

それ以外には特に地図に強い思い入れもなく、ただなんとなく本書を読み知見を広げたわけだが、その中で最大の収穫は地理院地図なるものが存在することを知りえたことだ。
依頼者の要望でGoogle Mapを用いたWebアプリを作成したことがあったが、無料の枠というものがあり、使用に制限が発生した。今後似たような依頼があれば、地理院地図が候補に挙がるかもしれない。Google Mapに慣れた身の上からすると、やや見にくくはあるが。

 

中央アジア・蒙古旅行記

 さて、わたしは上述の司祭たち(私注:仏教徒と思われる)のそばにすわってからーーそれは、寺院の内部へ入って大小さまざま、沢山の偶像を見たあとのことでしたーー神についてかれらがどういう信仰を抱いているかをたずねました。すると、

 われわれは、ただ御一体の神しかおられないと信ずる。

という返事でした。それで、

 お前たちの信ずるところでは、神は一つの霊なのか、それとも何かからだを持ったものなのか?

と問いますと、

 われわれは、神は一つの例であると信ずる。

と答えました。わたしが、

 神がかつて、人間性を執ったことがあると信ずるか?

とききますと、

 いや、信じない。

と返事しました。そこでわたしはたずねました。

 神はただ御一体で、しかも一つの霊であられると信じているなら、何故お前たちは、神にかたどって、からだをそなえた像をつくるのか? また、何故、そんなに沢山つくるのか? さらにその上、神がかつて人間となったことを信じていないなら、何故神にかたどって、ほかの生きものではなく、人間のかたちをした像をつくるのか?

これにたいするかれらの返事はこうでした。

 われわれはこれらの像を、神にかたどってこしらえるのではない。われわれのうち誰か富裕なものが死ぬと、その息子か妻、または誰かそれに親しいものがその死者の像をつくらせて、ここに安置し、われわれがそれを、その死者の追憶のために崇敬するのだ。

この答えに、わたしはこうききかえしました。

 それならお前たちは、こういうことを、ただ人間をうれしがらせるためだけにするのか?

かれらはこれに、

 いやそうではない。人々の追憶のためにするのだ。

と返事しました。

P.238

 

 それから、ウィリアム親方が大病にかかるという事態が起こりました。快方にむかいつつあるときに、例の修道僧が見舞いに行って大黄をすこし飲ませ、そのため親方をあやうく殺してしまうところでした。わたしが見舞いに行くと、容態が大変悪いようなので、何を飲み食いしていたのだ、とたずねました。すると、修道僧が飲物を分けてくれたので、聖水だと思い込んで鉢に二杯飲んだ、と答えました。早速わたしは修道僧のところへ出向いて、こう言いました。

 使途のように、祈りと、聖霊との力によって本当に奇蹟を行おうとつとめよ。さもなければ、医学の知識にもとづいて、一人の医師として振る舞え。お前は強い薬を盛って、そんなものは予期もしていない人たちに、まるで何か聖なるもののようにして飲ませている。これがみなに知れわたったら、それこそ、これ以上考えらあれぬほどの物議をかもし、お前の面目はまるつぶれだぞ。

P.306

 かつて、ローマの技術や文化的要素はその滅亡後、ヨーロッパにというよりはむしろアラビアが後継者的立場にあったとなにかで読んだ。むしろヨーロッパは、アラビアからそのいくばくかを輸入する立場であったと。

ではなぜ、アラビアは台頭しえなかったのか。なんとなく、モンゴルのせいかなと思っていたが、本書によると、まさしくそうで、考えていたよりもはるかにひどく叩きのめされていて、それどころではなかった様子がうかがえる。

英米のファンタジー的な作品でモンゴルをモチーフにした風物が登場するとき、なんというか、ひどい恐れようが伝わってくる。そんなに!?というのは、神風でなんとなく被害を避けられた国の末だから抱ける感想なのだろう。AD&Dのエキスパンションだかなんだかの表紙絵でも、モンゴルモチーフのやつはゴッドハンドの使徒みたいだったしな。
トールキン教授の作品における東夷というのはまさに、中世ヨーロッパにおけるモンゴル的な存在であるのだろう。

日本ではキリスト教ははじめ受け入れ、その後、禁じた。
その理由について、本書からうかがえることは、キリスト教の伝道師は布教もするが、本国や主たる筋に報告も送る、ということだ。禁じた君主たちは、それをよく理解していたに違いない。
信長の比叡山焼き討ちについてはまず宗教や文化の破壊として知ったが、のちに敵対勢力が立てこもった。比叡山は立てこもった側に協力的であったということを知れば、宗教や文化とは無縁に、単純に勢力争いの果てのことであると理解できる。

一面のみの伝道というのは何も、昨今盛んなように、報道だけの得意技ではないということか。