でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『シベリア抑留』

「昭和十八年四月か五月に西部六部隊に召集され、どうしたわけか夜中に非常召集をかけられて広島駅を出発、貨車に乗せられて下関まで行き、釜山からはずっ と汽車で虎林に着きました。虎林駅の次が虎頭駅で、ウスリー江をはさんでソ連兵と対峙していました。私たちは六百人は全員自動車の運転免許証を持っていま した。満州七一〇二部隊に配属され架橋材料の運搬が任務でした。兵舎は穴グラ――地下陣地でした。双眼鏡で見るとソ連人がしゃがんでおしっこをしている。 女のソ連兵を見た最初です。十八年といえばあまり緊張感はなく、河が結氷すると真ん中あたりに酒保で買った甘味品を置いておく。翌日ウオツカのお返しが あったりして……。国境警備はそんなふうでしたね」

 

 北朝鮮清津にはソ連極東海軍が支援し八月十三日に先発隊が上陸している。当然日本軍は反撃している。北朝鮮関東軍の指揮下に入ったのは二十年六月十八日である。中国中部の武漢地区にいた第三十四軍(櫛淵一中将)を引き抜き、主力の五十九師団が咸興に到着したのは八月初旬である。当時直接使用し得たのは永興湾要塞だけ(公刊戦史)という実情で、他の有力部隊は輸送途中であり、北朝鮮の日本軍もまた泥縄式の防備体制しかとりえなかった。
 朝鮮半島が三十八度線で南北に分断された形の線引きになっているのは、北半分が関東軍の指揮下にあったからである。ちなみに朝鮮全土には七十万人の軍人、一般人がいて、南北それぞれ三十五万人ずつ分かれて住んでいた。たしかに三十八度線以北は前述のように六月十八日に関東軍の指揮下に入った。しかしソ連参戦に際して、ソ連軍の占領地域が満州および北緯三十八度線以北に決定したのはW・H・マクニール(現シカゴ大学教授)著『アメリカ、ブリテン及びロシア』によると、ポツダム会談(昭和二十年七月十七日~八月二日)の際の第二回軍事協定で取り決められたという。ポツダム会談と並行して行われた米ソ軍事協定だが、これは純軍事的な会議で、いわゆるポツダム会談とは性格を異にしたものだ。この時点で「北緯三十八度以北」と協定された理由が、同地域が関東軍の指揮下に入っていたからだとする根拠は見当たらないにしても、ソ連が六月十八日、関東軍が北緯三十八度以北を指揮下に入れたという情報を持っていたことは十分に考えられる。
 金日成朝鮮民主主義人民共和国主席は当時ソ連に亡命しており、戦後ソ連の武力を背景に北朝鮮入りしているところからみても、金日成主席がこの情報をキャッチし、ソ連軍部に要請したことは想像に難くない。とすると六月十八日の関東軍の決定が朝鮮分割の原因を作ったことになるかもしれない。
 知日派アメリカ人で国際問題研究家のウィリアム・F・ニンモ氏が、バージニア州ノーホークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念公文書館に保存されていた資料を掘り起こして書いた労作『検証―シベリヤ抑留』(加藤隆・訳、時事通信社・一九九一刊)に興味ある記述がある。対日理事会(日本占領後に設けられた米・英・ソ・中華民国による東京での諮問機関)などでの日本人抑留者のソ連からの引き揚げをめぐっての米・ソのなまなましいやりとりが一次資料によって紹介されている。ソ連北朝鮮を占領した経緯について同書は、
ヤルタ会談の私的な会合でルーズベルトスターリンは日本敗北後、朝鮮をソ連、イギリス、アメリカ、中華民国の代表によって統治される信託統治下に置くことにした。この約束は一九四五(昭和二十)年春、サンフランシスコで行なわれた国連の会議およびポツダム会談でも確認されたが、日本の降伏があまりにも突然だったため実現のための具体的な計画にまで話が発展しなかった。ソ連、アメリカの両軍代表は大急ぎで朝鮮での日本降伏を迅速に進めることを決定。三八度線以北の日本軍はソ連軍に、以南はアメリカ軍に降伏することにした。全朝鮮の信託統治は日本の降伏に引き続いて行なわれるはずだったが、しかし、ソ連軍は間もなく北の全領土を占領下に入れ、境界線を確定して厳重な防備体制を敷いた」
 と書いている。引き揚げ者が、満州から朝鮮経由で日本に帰ろうとしても三十八度線で引っ掛かった意味が、時間が経過するとともに解ってきたということであろうか。


 それにしても関東軍はいま少し早く在留邦人に対して手を打つべきであった。朝日新聞記者稲垣武著『昭和20年8月20日=内蒙古・邦人四万人奇跡の脱出』によると、中国での出来事であるが張家口にいた蒙古自治邦政府企画課長勝田千年氏は「引き揚げ命令」だと荷物をまとめるのに時間がかかるとし「一時避難命令」という、いわば「ニセ命令」を出し、ほとんど着の身、着のままで邦人を列車に乗せ南下させている。この中に芥川賞作家の池田満寿夫氏もいた。まことに見上げた、立派な処置である。指揮者の機転によって、人間の運命が左右される典型である。

 

 進駐ソ連兵はドイツを攻略し反転して満州に来た少年のような兵隊たちであった。服装や靴は大変粗末だったが、持っている自動小銃や拳銃はすばらしく、生 活レベルや教養は低かったがドイツ語会話を理解した。私たちもドイツ語を一年半ばかり習っていたのでこれが役に立ち意思を通ずることができた。
 彼らが一番欲しがるものは時計であった。高く売れたが驚いたことには腕時計のネジを巻くことを知らない。ネジが切れて時計が止まると、壊れたものと思っ てすぐに捨ててしまう。だから腕には数個の時計を持っていなければならない。捨てられた時計は、日本人や中国人が拾ってまたソ連兵に売りつけた。うそのよ うな話だが本当である。それくらい第一線のソ連兵は戦争に勝つことのみを考え、兵器には心血をそそいで素晴らしいものを持っていたが、日常生活レベルが低かったのである(略)。
 日本の着物は高く売れたが日本人の持っていた楽器はもっとよく売れた。ソ連人は音楽好きな国民であり、踊りも好きである。印象に残ったのはギターを売っ た時のことであった。彼らも中国人同様、猛烈に値切ってから買う習慣がある。それを見越して最初は倍以上の値段をつけておき交渉を始める。ギターもすごく 高い値をつけ、そして値切られた。私は商売が上手になっており値引きしなかった。有金全部をはたいたが私は売らない、とうとう拳銃に手をかけた。
 私は恐ろしくなり、もう売らなければと考えているうちに、有り金と拳銃を机の上に並べて、ニッコリ笑って黙ってギターを持って帰った。私は実弾の入った拳銃と軍票を持って、この日はすぐに下宿に帰ってしまった。申すまでもない。拳銃を手放してまで自分の欲しいものを手に入れて、笑顔で帰って行ったソ連兵 の童顔は、いつまでも私の頭の中に残った。しかし兵舎に帰って、失くなった拳銃の始末をどうするのであろうか。日本の軍隊ではとても考えられないことをする国民、欲しい時にはどんな事をしても手に入れる粘り強い国民だということを痛感した。

 

 作業にはノルマがあることは前にもふれた。社会主義国の特徴であるが、ソ連の場合は徹底したものであった。研究者によれば作業種別、地域別、季節別などを考えた詳細なもので、百科事典ぐらいの大きさの、数百ページのノルマ表が何十冊もあったという。最も簡単な例を言えば、二人で一日十立方メートルの木材を切り出すのがノルマとすると、それをやり遂げれば達成率は一〇〇パーセントとなり平均賃金が支払われる。八〇パーセントしか達成できない場合は二〇パーセント引き賃金しか払ってもらえない。日本人抑留者の場合は、ノルマの達成率によって黒パンの量で加減した。「働かざるものは食うべからず」を地でいったのである。金本位制をもじって、“黒パン本位制”と称したのは、若槻泰雄玉川大教授だが、なかなかうまい表現である。がこの黒パン本位制がシベリア抑留の悲劇の源泉の一つになったことを思えば感心ばかりもしておれない。

 

「みんな頑張ったが検収員(ソ連人)が意地悪で作業量をノルマの三〇パーセントくらいにしか書かなかった。私たち五人の小隊長は毎晩のようにソ連大隊長室に呼ばれノルマの督促を受けた。いくら頑張ってもこの検収員ではやりがいがない。しかし収容所におけるストライキは厳しい管理体制で不可能である。
 各小隊長は決死の覚悟でストライキに入った。翌日から伐採の現場には行くが、たき火を囲んで仕事はしなかった。ところが一番初めに困ったのが検収員であったから皮肉である。作業終了後、検収員の書いたノルマ票に日本の小隊長が署名し、事務所に届けることになっている。事務所に届いたノルマ票は小隊長の署名がないので通用しない。従って検収員は仕事をしないことになり食糧の配給が停止された。検収員は困って、寝ている各小隊長に署名するよう依頼に来たが、絶対署名しなかった。ついに五人の小隊長と検収員が山の中で団体交渉することになり、雪の中で相対して交渉した。以後作業量を一〇〇パーセントに書くことで妥結した。その後は日本人も真剣に作業に励んでノルマの完遂に努力した」

 

 場所はチタあたりだったと思います。十一月十一日、私たちは死刑台に登りました。十五メートルぐらいのところからピストルで撃ちます。まず町田が銃殺され次は私です。一発目は耳をかすり、二発目ははずれ、三発目はピストルの故障で鈍い音だけしました。すると射手(執行者)がピストルを投げ捨てて飛んで来て、日本語で言いました。『平本さん別室に行きましょう。ソ連では三発発射して死ななかったら国外追放となります。私は百人以上も死刑執行したがこんな事ははじめてです。第二の人生に乾杯』と言ってブドウ酒をのませてくれました。再びシワキの収容所に連れ戻されたのですが責任者が十日、私が十五日間の減食営倉の処分を受け、平壌に連行されました」

 

 シベリアも六月になると新緑となる。が、このころになって栄養失調患者が急増したという。ビタミンCの欠乏による肝臓疾患で、朝起きてみると隣で寝ていた人が死亡しているといったようなことが度々あった。ビタミンCの補給のため、松葉をスープにしてみたが「飲める代物ではなかった」そうだ。浅本氏も大腿部を両手で握ると指先が交差するほどやせた。山で雑草(多分アカザ)をつみ、飯盒で煮て食べる者が多かった。ところがスーチャン病院で死体解剖したのを見ると野菜のアク抜きをせずに煮て食べたため、腸の内壁にアクがびっしりついていて、栄養の吸収ができなくなっていたという。同氏はケガをして入院し、回復後、軽作業の死体解剖の手伝いをやらされていた。「同じような死体を多く見た」とのことだ。

 

 同じ収容所にいた古田勇氏は坑内労働の苦しさはともかく、日本人収容所の近くにウクライナ人家族の収容所があり、百人か二百人抑留されていて、日本人と同じように採炭作業をやらされていた姿が強烈な印象として残っている。父親は娘の、娘は父親のノルマを気にしながら労働していたという。元来ウクライナは独立連動が盛んであり、独ソ戦の時ドイツ側について戦った部隊もあったし、ソ連からみればはなはだ危険な民族ということになる。ウクライナ人捕虜(というより囚人)がいても不思議はないが、ソ連人女性も坑内で働いており、トロッコが脱線したときなど、若い女が一人で腰を落として持ち上げ元に戻したのには驚いたという。
 抑留生活を語る場合、冬季の便所と夏季のブヨの大群のことは欠かせない。地面に深い穴を掘り、その上に木材を渡し、天井に板を置いただけの構造で仕切りや戸はない。ソ連占領下のハルビンでも、ソ連兵が便所の扉を取り除かせたとの証言もあるから、便所をオープンにするのはソ連流なのだろう。女性の性道徳も乱れており、後藤敏雄氏の『シベリアウクライナ私の捕虜記』(国書刊行会刊)には「不道徳と言うよりも無道徳」と書いてある。取材中にもこの種の証言はいくつも聞いた。生まれた子供は「スターリンの子供」であり、妊娠中はそれなりに社会保障が与えられるかららしい。これもソ連流であろう。

 

 シベリア抑留を語る場合、前に事件名だけを紹介したモンゴル人民共和国の首都ウランバートル収容所で起こった“吉村隊長事件”と“ナホトカ人民裁判”を無視するわけにはゆかない。前者は日本人作業隊長の隊員虐待事件で“旧軍将校の横暴”という側面を持つものであり、後者はそれと対極をなす“アクチブ(活動家)”による“左傾化しない日本人(反動)”に対するつるし上げ事件である。まず“吉村隊長事件――暁に祈る”について書く。
 昭和二十四年三月二十三日、元隊員二人の告発によって政治的問題ともなり、同年六月参議院在外同胞引揚委員会は四日間にわたって証人喚問。東京地検は全国三十七地検の協力を得て元隊員を調査し、「遺棄致死」「逮捕監禁」で七月十四日、吉村隊長=本名・池田重善(当時三十四歳)=を逮捕した。同隊長は二十五年七月、東京地裁で懲役五年の判決を受け、控訴審でも懲役三年の実刑を言い渡された。三十三年三月、最高裁が上告を棄却したため刑が確定し、大分刑務所で服役。刑期を一年残して釈放された――という経緯をたどった。
 昭和二十四年三月十五日付の朝日新聞に、吉村隊長を告発した元隊員の訴えが掲載されたのが、社会問題、刑事問題、国会での審議につながる契機となったものだ。朝日新聞の見出しは「同胞虐殺の吉村隊長・生き残り隊員が語る」「外蒙抑留所の怪事」「生身のまま冷凍人間/鬼畜リンチの数々」とセンセーショナルである。もっとも二十三年ごろから、吉村隊長のことは抑留記の中に出ており、朝日新聞の記事が初めてではないが、全国の新聞が競って取り上げるキッカケは作った。
 当時のマスコミは競って報道したから年配の読者なら記憶されていることと思う。雑誌にも隊員の手記が掲載されたし単行本も出された。当時“暁に祈る”という言葉は上司が部下を虐待する代名詞とさえなった。旧軍の体質を暴露する用語ともなった。吉村隊長事件については、二十二年五月、自由出版社から出版された、鈴木雅雄氏の『春なき二年間 ソ連の秘境ウランバートル収容所』の中に紹介されているものが筆者の知る限りでは一番早い。この著書は同じウランバートルに抑留され、吉村隊長と同時期に帰国した小原二郎氏から提供されたもので、同氏は「吉村隊のことはウランバートルでは有名で私も話には聞いています。戦後二年間、収容所内で軍隊の階級章が通用していた文字通りの秘境でした」と語っている。

 

 受刑者には気の毒だが、珍妙な記録もある。満ソ国境の守備隊に配置されていた将校がスパイ行為で調べられた。
 たとえば次のような検察官とのやりとりがある。
問「国境監視部隊を巡視したか」
答「もちろんした」
問「ソ連の方を見たか」
答「無論見た」
問「それは諜報だ」
答「見たどころではない。見えるではないか」
問「国境まではみてもよい。その向こうを見れば諜報だ」
 また、戦闘に関してのやりとりもはなはだ一方的である。
問「戦車攻撃にあたり、前からするか、後からするか」
答「そんなことは、その場の状況による」
問「それなら後からもやるか」
答「むろん、状況上やってよいときはやる」
問(結論)「それは謀略だ」
 もはや五十八条に当てはめるための既定路線を走っているだけの感じである。

 

 ソ連の外交路線決定は党中央委員会国際部が行うのは広く知られている通りで、外務省は党の方針に従って動くだけである。グロムイコ前外相もコワレンコ国際部副部長の強い影響下にあった。NHK元モスクワ支局長だった吉成大志東京外国語大学講師は、雑誌『文藝春秋』(六十年十二月号)に「コワレンコ副部長は、戦後ハバロフスクにあった軍捕虜収容所の係官時代、日本人を手なずけるには暴力、つまりムチとビンタがいちばん効くことを覚えたといわれ、党中央委員会国際部副部長に就任した後、このプリミティブな日本人観をもって対日政策を立案したといわれる」と書いている。
 さらに次のような驚くべき内容の記述がある。
「一昨年(五十八年)私はワシントンにある某大学のセミナーに参加したとき、コワレンコ副部長(党国際部)についてアメリカ人学者から驚くべきことをきかされた。ある年、アルバートフ米国・カナダ研究所長とともにワシントンを訪れたコワレンコ副部長は、アメリカ人を前にして『日本問題については、私が絶対的な権力を握っている。私が党中央委員会国際部の名で立案した対日政策については、ブレジネフ書記長といえども反対できない。ソ連とアメリカが手を握って日本の頭をガツンとたたけば、日本なんか黙らせるのはわけはない』と豪語した」
 当時のグロムイコ外相の、つまりソ連の対日外交姿勢が強硬であったのはそのためであり、ゴルバチョフ政権下の外相として六十年一月十五日来日したシュワルナゼ外相がどのような対日政策の変化を見せるかは興味のあるところであったが、実態はまったく従来通りで変化はみられなかった。

 

 着いた所がマルシャンスクの国際ラーゲリだったわけです。私は大佐を長とする大隊本部の通訳をしていました。到着して当分の間は燃料用の薪の採集など軽作業でした。私の場合、週給五ルーブルぐらいもらったような記憶があります。たばこのマホルカ一箱が三ルーブルでしたから、たいした金額ではありませんが、モスクワに近い国際ラーゲリだったためか、国際監視団もやって来るし、国際法を守らざるをえなかったのかもしれません。ビール工場、たばこ工場に半年ぐらいずつ長期作業に出たこともあります。働いている人はほとんど女性です。第二次大戦に男性を総動員したんですね。いや女性も兵隊として参加していて、ロシアの将校が『ベルリンの空はピズダで覆われた』とベルリン陥落時の話をしてくれたほどです。ピズダは女性性器のこと。女性空挺隊員がベルリンに降下したと言うわけです。

 

 ナホトカ人民裁判が「自然発生的か」「アクチブの仕掛けか」にこだわる理由は、日本人の精神文化と大いに関連するからである。具体的に言えば絶対権力者ソ連に対する迎合か、自らが獲得しようとした民主主義志向かの問題である。この種の問題は実態がドロドロしたもので、一刀両断にできる性格のものではないことは承知の上だが、シベリア抑留を考える場合、絶対に避けて通れない命題である。

 

「日の丸梯団」の出現は、シベリアの民主グループの耳にもすぐに入る。記録によれば、舞鶴での復員係官に対する回答のやり方まであらかじめ訓練するようになった。たとえば次のように、である。
 ――随分寒かったでしょう。
 答 寒い時は零下四十度になります。(この答えはいけない。気象条件は重大な軍事情報である。正解は『寒かった』だけでよい)
 ――体の悪い時の作業は免除ですか。
 答 三十八度以上の発熱の時休みます。(これもいけない。三十八度まで発熱患者を働かせるという反ソ材料の提供になる。正解は『はい』)
 ――ソ連にも泥棒や物もらいがいますか。
 答 そりゃあいます。(これもダメ。泥棒や物もらいは社会主義国家にはあり得ない。われわれはソ同盟の真実を伝える階級的義務がある。『知らない』と答えればよい)

 

 厚生省は「ソ連が任命したように見える指導者(アクチブ)は実際は傀儡であって、真の指導者は陰に隠れている」と書いている。二十四年の引き揚げを終了した時点に書かれた厚生省文書は、今見ると悲壮的でさえある。洗脳された帰国者集団が発するものすごいエネルギーに対する恐怖と、赤化思想に対する警戒心がありありとうかがえる。

 

 シベリアの収容所でドイツ人に接した日本人は多く、そのドイツ人観もさまざまだが、マルシャンスクとかエラブカなどの国際ラーゲリでドイツ人と生活をともにした抑留者の印象は非常に興味がある。個人差はあるが、一般的なドイツ人観は「堂々として、ソ連の思想教育に見向きもしなかった」ということである。民主化運動が高揚し、赤旗を先頭にしてインタナショナルを合唱しながら行進している日本人グループを見たドイツ人の一人が、やにわに赤旗をもぎ取り、地にたたきつけて踏みつけた、という目撃談もある。少なくともドイツ人の抑留者の中には「ソ同盟万歳」とか「スターリンに感謝」「天皇島へ敵前上陸」といったふうな倒錯した精神状態になる人はなかったようである。ドイツ人と日本人の精神文化の差とみるべきであろう。

 

思いがけぬピースを発見した。
そんな思いだ。

社会主義共産主義が、いわゆる民主主義への驚異と見なされたのは、制度にではなく、主に人に理由がある。そんな印象を改めて抱かされた。
戦後ドイツ』には、ナチスに迎合した大衆・知識人のありようが紹介されていた。
人種、民族、世代、性別、さまざまな区別によって人類はカテゴライズされているが、いずれも結局は「人による」と言わざるを得ない。

ひさびさに、CivIVでもやってみようか。