でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

KGBの男

 スターリン時代に情報機関の幹部を務めたパーヴェル・スドプラートフは、西側諸国でスパイをスカウトしようとする情報員に、次のような助言を与えている。「運命や生来的特徴によって傷ついている者を探せ――醜い者、劣等感にさいなまれている者、権力や影響力を求めているが不利な境遇のため挫折した者などだ。(中略)私たちに協力すれば、そうした者たちは全員がそれぞれ報酬を得られる。影響力のある強力な組織に所属しているという意識が、周囲にいる美しくて裕福な者たちに対する優越感を彼らに与えるだろう」。長年KGBは、スパイ活動を行う四つの主要な動機を言い表すのに「MICE」という頭字語を用いていた。その四つとは、金銭(Money)、イデオロギー(Ideology)、強制(Coercion)、そして自尊心(Ego)である。

P.90

 すべてのスパイは、自分が愛されていると感じる必要がある。諜報活動で最も強い力のひとつ(かつ、主要な幻想のひとつ)に、スパイとスパイ監督官、つまり工作員と担当官が結ぶ情緒的な絆がある。スパイは、自分は必要とされていて、秘密のコミュニティーの一員であり、報いられ、信頼され、大切にされていると感じたいと思っている。エディ・チャップマンは、イギリス側担当官ともドイツ側担当官とも、密接な関係を築いた。フィルビーは、自分を採用したKGBの有名なカリスマ的人材スカウトであるアルノイト・ドイッチュについて、「彼はすばらしい人物だ。(中略)まるで、今この瞬間にはあなたやあなたと話すこと以上に重要なことなど何ひとつ存在しないのだというような感じで、こちらを見つめるのだ」と書いている。こうした愛情への飢えや承認欲求を利用して巧みに操縦することは、工作員の運用で最も重要なスキルのひとつだ。成功を収めたスパイで、担当官との絆を、地位や政治的利害や財産目的の政略結婚よりも強いと思わなかった者はひとりもいない。この絆は彼らにとって、嘘と欺瞞があふれる中で唯一の、永遠に続く本物のつながりだった。

P.92

時はゴルバチョフが権力を掌握する前後のこと、アンドロポフとソ連首脳が病的に西側を恐れ、核による先制攻撃を受けるのではないかと怯えるあまり、やられる前にやってしまえと行動に移さんとし、未然に終わったころのこと。

イギリスが、その頃のソ連と良い外交関係を構築できた背景に、KGBからイギリス側に寝返った一人のソ連人から流された情報があった。

彼はやがて、おもいもよらぬ筋からの情報漏洩で裏切りを暴かれ、本国へ召還される。イギリスは彼を救出する作戦、彼を運用し始めたときに考案され、実現の可能性は低いとされながら、また実用に至ることはないと考えられていた作戦を遂行する。ソ連にスパイを送り込むことは火星にスパイを送り込むより難しいといわれた当時、その圏内から誰かを逃がすなどということは実現不可能と思われていた。

その作戦を実行するイギリスの対ソ連外交官という隠れ蓑をまとったMI6局員たち--これが小説ならば、物語の終盤になってポッと出てきた人々が、従来の登場人物たちの活躍をかっさらったように読めるかもしれない。ドキュメンタリという体裁の本書では、その時その立場にあったということで理解される人々--の活躍が熱い。おむつ作戦とか。

原題"THE SPY TRAITOR"。
読了は年を越してしまったが、2020年に読みはじめた中でベストな一冊といえる。

 

イリアス、オデュッセイア

 また、テュンダレオスの妃、レデ(レダ)にも会った。彼女はテュンダレオスとの間に、豪胆な二人の息子、馬を馴らすカストルと、拳闘の名手ポリュデウケスを儲けたが、ものみなに命を授ける大地が、生きながら二人を蔽っている。二人は地下にありながら、ゼウスから特権を与えられ、一日ごとに変わる替わる生きては死ぬことを繰り返す。二人は神々と同じ特権に与かっているのだ。

上巻 P.291

二三四 14 この偽名を用いて危地を脱するモチーフは各地の民話に見られる。これに関しては、
 楜沢厚生『<無人ウーティス>の誕生』影書房、一九八九年
が参考になる。またこの問題も含めて、ポリュペモス伝説全般にわたって論じた
 中野哲朗「オデュッセイアにおけるポリュペモス譚について」 西洋古典論集VII(ホメロス特輯)、京都大学、西洋古典研究会、一九九〇年、一ー二二
は大層行き届いた好論文である。

上巻 訳注 P,362

 


とある個室に置いて、そこにいるときだけ読み、二年以上かけて読了した。
岩波版。このスタイルの本は、一気に読むと挫折しがち。一節ずつとか数節くらいとかで読みすすめていくのが個人的にはちょうどいい。しかしながら、上記引用は自ら付箋を貼ったわけだが、なにゆえにそうしたのか、覚えていない。

どちらも創作は大いに混じっているのだろうが、イリアスがわりと軍記モノしているのに対し、オデュッセイアはてきとーな冒険小説というカンジ。『ガリヴァー旅行記』は後者から大いなインスピレーションを得たのではないかと思えたりする。

なにかというと智謀にたけたと冠されるオデュッセウスだが、アテナの加護が厚すぎて、彼自身の性としてはよくて慎重、わるければ疑い深いと読めた。

白銀の墟 玄の月

本書を知ったのは発刊数か月前の告知であり、その時まず思ったのは全四巻という構成に対する不安だった。前もって四巻と謳ったからには、上中下完結編123のような悪夢はないとしても、いささか長すぎるのではないかと感じたからだ。
大は小を兼ねるというが、長い作品が良いとは限らない。いいたかないが、『超人ロック』の平成以降のシリーズでそれを学んできた。1シリーズ四巻構成は商業上の理由でしかないと強く感じられた。ファンは買うよ。そりゃね。だが、キング時代の小さなコマ割りで、2巻構成が理想だと思いながら、買っていたよ。

次に思ったのは、そういや蔵書を処分したんだっけということだった。告知からさかのぼること半年ほど前のことである。
ホワイトハート版を手放すことにいささかのためらいはあったものの、十何年も新刊が発売されなかったことに、もはや続刊は望めまいと手放してしまっていたのだった。おりしも何年も新刊が発刊されなかった別のシリーズの最新刊を読んで、好みに合わなくなってしまったことを痛感したあとのことであり、変な勢いがついていた。

ゆえに、本書に手を出すことをためらっていた。全四巻という構成は、好みに合わなくなっている可能性を強く印象付けている。好みだった場合、シリーズ全巻を手放したことをすごく後悔することになる。だがまあ、興味には勝てなかった。

本書はミステリ仕立てである。
ミステリは好みに合わないジャンルだ。『犯人たちの事件簿』がその理由を明確に説明してくれるまでしかとは理解できなかったが、トリックにリアリティを感じられないことが最大の理由である。トリックが面白いとか感じるよりも、「え、そんなことする?」と感じてしまう。『羊たちの沈黙』以来、おサイコさんという概念が大手を振って歩くようになり、トリックや動機のリアリティがさらに減じた。なにをやったとしても、おサイコさんだから仕方ないよね? アホか。
ミステリへの苦手意識は募る一方であり、生涯改まることはないと思う。ミステリではなく冒険小説という体ならあるいは。シャーロック・ホームズや、怪盗ルパンは楽しんでいたから。

ゆえに、驍宗の行方を追うくだりを楽しめなかった。本書を構成する3/4を苦痛と共に過ごしたことになる。物語の焦点がぼやけている印象がずっと続いていた。人物や出来事が焦点ではなく、トリックが焦点であったからだろう。トリックはやはり肌に合わない。六年だか七年の空白は、ミステリ特有のトリックの強引さとしかみえなかった。
24章、25章に至って、ああ、これが十二国記だと思えるようになった。それまでは本当に苦痛だった。

本シリーズは、「月の影 影の海」「風の海 迷宮の岸」「東の海神 西の滄海」と読み、『魔性の子』に到達したクチなので、シリーズの主役は赤子と感じている。シリーズがまだ若いころはそうは思わなかったが、「黄昏の岸 暁の天」の頃には泰麒が登場する話は暗くてかなわんと思うようになった。
赤子は中華風ダークファンタジーという印象で好みと一致するが、泰麒はハウスこども名作劇場な感じだからだろうか。ハウスこども名作劇場は、子供心に、かわいそうで見てらんなかった。同じ理由かもしれない。違うかもしれないけど。

「黄昏の岸 暁の天」ではまた、著者はステップを踏み誤ったと感じた。天の描写を急ぎすぎたと感じられた。似たようなところだと、ハルヒハルヒのライバルが登場したときに感じたものだ。作品にとって致命的な誤り。作家がこれ以上進めなくなってしまう自縄自縛の罠。

本作品で著者は、琅燦を用いて自縄自縛を解いたかに見える。
しかし、続刊は期待できるのであろうか。

ベレンとルーシエン

指輪物語』『ホビットの冒険』『シルマリルの物語』と読み、『指輪物語』は数回以上、『ホビットの冒険』は一回、『シルマリルの物語』は数回程度読んだ。

指輪物語』では世を憂う賢者として、『ホビットの冒険』では非常に俗な存在として、『シルマリルの物語』では神話級の存在として描写されたエルフ。その実像はいずれかと、いささかの違和感を抱きつつ今日に至る。

その程度の読み手であっても、『シルマリルの物語』を最後に読んだ時にはトールキン教授の稚気ともいえるものを感じることができた。すなわち、設定は厨二爆発でも、物語にそれを一切あらわさずに済ますことができるということである。

ベレンルーシエン』については『シルマリルの物語』の中で既知としていたが、ベレンというぽっと出の人物が、モルゴスからシルマリルを奪還する偉業を成し遂げることに疑問を抱いていた。『指輪物語』が数行程度で描写されてしまう歴史の中のこと、詳細がないことにいちいち躓いてもいられない。そういうものだとしてとりあえず受け止めていた。
本書においてようやく得心が行った。ルーシエンという、神に準ずる存在と上古のエルフのハーフが生来有する強力な魔力によるところが大きい。ベレンがそのハートを射止めたがゆえに、決戦兵器ルーシエンはモルゴスと対峙することとなったのだ。神ともいうべき存在を、その居城に存在するものどもとともに、不如意な眠りに誘う歌と舞。EQのバードは歌って眠らせ、歌って透明になり、高速で宙を走ることができた。いかにして、という話題は仲間内でもあったが、ルーシエンが祖たる要素なのかもしれない。ルーシエンベレンの手に神殺しの手段がなかったことは、モルゴスにとって幸運であったというべきか。
ベレンについてはまた、本書の末節において来歴が記されており、父バラヒアをモルゴスに殺められたことで復讐鬼となり名を挙げた人物であることが語られている。別バージョンの一節であるが、そのような人物と解釈して間違いなかろう。

本書は、『シルマリルの物語』の一部をなすエピソードが、いかに推敲されバージョンアップされてきたかを語る。初期の、古民話を焼き直したような物語から、オリジナル世界の神話へと昇華する様を読むことができる。
著者であり、トールキン教授の子息であるクリストファー氏によれば、トールキン教授は『ベレンルーシエン』に関連する創作で挫折もしている。作家の苦悩を作品の推敲上の変遷に垣間見ることができる、本書はその稀有な機会であろう。

 

北斎になりすました女

FGOをやっていなければ、葛飾北斎に娘がいたことを、その名をお栄、画号を応為と称した娘がいたことを知らずにいただろう。本書に興味を抱いたかも不明である。

名詞や年号を記憶して成績を問われた歴史という学問は、苦手で嫌いだった。
そういったものから久しく遠ざかってみれば、それらがインデックスだったことに気づきもする。点と点があるから線にできるというか。
本書から例をひけば、北斎シーボルトに面識があったらしい、とか。

厚くはない本で、興味を覚えて雑学として仕入れるにはほどよい。社会という教科にトラウマを持つ人物でも楽しむことができた。

 

虫たちの越冬戦略

本書のタイトルから期待した内容は、

  • 昆虫全般の網羅的なものであること
  • 学術的というよりは読み物として楽しめるもの

であったが、前者については著者の研究事例に基づく少数の昆虫と、著者が知る多くはない例についてのみ、後者については論文と科学解説書の中間くらいということで、難読ではないが、強い興味を持っていなければ楽しんで読むことは難しいと感じられた。

そもそも昆虫のこの分野にける研究例は数が少ないらしく、1990年時点では今後の発展が望まれる分野であるようだ。
糖尿病は人類が寒さに対して獲得した形質であるというが、昆虫にも同様の性質があり、気候の変化で血中の糖やグリセリンの量が増減するという学びを得た。

国盗り物語

「一人出家すれば九族天に生ず」
という信仰習慣があり、たとえば日護上人などもその習慣から僧にさせられ、一族で建てた常在寺の住僧になったのである。余談だが、この習慣はほんの最近まで岐阜県につよく残っており、この県出身の僧侶が多い。


第二巻 P.168

 なるほど、革命は、美と善を目標としている。すべての陰謀も暗殺も乗っ取りも、革命という革命家自身がもつ美的世界へたどりつく手段にすぎない。
 革命家にとって、目的は手段を浄化する。

第二巻 P.179

 司馬史観という言葉は知っている。だが、それを云々できるほど司馬遼太郎作品に触れていない。『坂の上の雲』に続き、二作品目となる。
本作品を読むうちに、司馬史観というものがなんとなく察せられるようになった。読ませる文章には説得力があるということだ。

「時代小説」というものは、もっと積極的にフィクションであることを強調すべきだど思う。歴史をなぞっているのだから、ある程度、というかかなりの度合い、史実に沿っていると、かつて思っていた。
青さもだいぶ抜けた頃にそうではなく、あくまで小説なのだと理解するようになったが、つまり時代小説の態度というものが、司馬史観なる言葉を生む素地なのであろうと思う。

菊地秀行夢枕獏も読まなくなって久しい。かつて耽溺していたころ、ルーツはどのあたりにあるのだろうと漠然と考えていたが、ふと、ルーツとまではいかなくとも要素の一つとして司馬遼太郎があるのではないかと思えた。