でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

勝者なき戦争

 しかしながら、一九〇五年夏のポーツマスにおける交渉のほかに、日米間で進行中の事案が存在した。セオドア・ローズヴェルトは、戦勝国日本と敗戦国ロシアの間の講和会議を主催する約一か月前、アメリカ史上最大の外交使節団をアジアに派遣していた。陸軍長官ウィリアム・タフトに率いられた特使団は、、七名の上院議員、二三名の下院議員、陸海軍、各省の代表、そして大統領の娘アリス(とそのボーイフレンド)、総勢七〇人からなっていた。特使は、遠洋定期船でサンフランシスコからハワイを経由し、日本、フィリピン、中国、朝鮮を周遊してサンフランシスコに帰港した。派遣当時、ローズヴェルトは、自ら国務長官の代理を務めていた。
 タフトのアジア歴訪の目的は、アメリカのフィリピン行政にかかわる問題を調査することにあった。途中、タフトは日本を表敬訪問し、日米関係と日露戦争にかかわる問題について協議していた。タフトは、大統領から文書を委ねられたわけでもなく、また口頭で指示を受けたという証拠も存在しないが、疑いなくローズヴェルトは陸軍長官に対して、この二つの問題に関する自身の見解を明らかにしていた。タフトは、一九〇五年七月二七日に日本の総理大臣桂太郎と会見した。両者は会見の中で、日米両国がそれぞれフィリピンと朝鮮半島を支配することについて正式に承認し合った。この会見の「機密」は、桂=タフト協定として知られている。会合の要約文書を受け取ったローズヴェルトは、当然ながら、タフトの見解を「あらゆる点で」承認した。ローズヴェルトはすでに三月、桂首相のもとに送った若き国務省官僚ジョージ・ケナンを通じて、「日本は旅順を掌握すべきであるし、また朝鮮半島も支配すべきである。この問題は、すでに了承済みである」と伝えていた。そのようにふるまうことで、大統領は、一八八二年に締結したアメリカ=朝鮮協定に含まれた朝鮮の保護という、アメリカ合衆国の誓約を反故にし、その代わりに日本の膨張主義を戦略的に認めたのである。ローズヴェルトの考えは、日本はアジアにおいて一種の「日本版モンロー・ドクトリン」を築くべきだというものであり、その核心は、帝国主義ゲームへの招待にほかならなかった。しかしローズヴェルトはこの提案を正式に支持したことも、認めたことも決してなかった。
 アメリカの歴史家ジェイムズ・ブラッドレーによれば、「日本版モンロー・ドクトリン」という構想は、一八七〇年代にアメリカ外交官チャールズ・ルジャンドル将軍によって日本人に提案されたという。この構想は、日本政府の指導者たちに影響を与え、アメリカの事例に倣うよう彼らを鼓舞した。しかし、これは日本のために提案されたわけではなく、あくまでもアメリカの国益のために提案されたものだった。「スラヴ民族ロシア」を含むヨーロッパ列強を危機的状況に追い込むために日本を説得し、東アジアへのヨーロッパの膨張を妨害することで、ローズヴェルトは、アメリカの通商のために中国市場の開放を可能にした。同時に、ローズヴェルトは金子堅太郎に宛てた書簡の中で、アメリカ最大の植民地であるフィリピンに近づかないよう、はっきりと日本に警告している。

P.148

 日本の外交力は十二歳並みだとか、未開地は文明地に支配されてしかるべきだとか、いろいろ強気なことをおっしゃっられていた国々があるが、俺はいいけどお前はダメとか、ある日突然ルールを書きかえたりする人々であることは薄々と察していた。
普段は仲のいい隣人同士でよそ者を排斥し、都合が悪くなったらよそ者を味方にして隣人をけん制する。ディプロマシーというゲームでも見られる光景だ。

黒船来航から日本が歩んできた道のりを、あちらこちらで学んできたが、アメリカという国は常に「しでかしている」印象しかない。本書において、中東でアメリカがやらかした事例を紹介している。タリバンを育てたのはアメリカだと。
ヨーロッパ列強といわれた国々もしかり、彼らがまいた種はすくすくと育ち、混沌の大樹に成長した。
白人種特有なのか、あるいは特定宗教信者特有なのか、由来不明の自信過剰でやってみたけど失敗するという事例は、歴史において何度も繰り返されている。戦争だけではなく、学問の分野においても。
小さな子供がやるんだったら可愛らしいことと笑ってられるけど、大国がやると影響がでかすぎて笑うに笑えない。

本書の主張は、戦争の勝利において得られるものはごく限定的かつ短期間でしかなく、四半世紀後には消滅してしまうというものだ。ナポレオンから始まって、2010年くらいのまでの大きな戦争に着目し、それを訴えている。
主張には同意するが、視点にやや公平性が欠けているように思われる。

ウィッチャー

ゲーム盤『ウィッチャー3』は操作感に慣れず放置している。

そんなとき、ネトフリにドラマ版があることを知ってネトフリに復帰、すごいいいところで続く?なカンジになっており、続きが気になって仕方がなかったのでぐぐってみたら原作小説が存在することを知り、読むことにした。

この物語が、かような結末を迎えると予想できただろうか。
魔法のある世界だから、エンディミオンのような展開があってもおかしくはない。だが、ウィッチャーというタイトルにふさわしい展開かといえば否と感じられる。
ゲラルトはだんだんオマケ扱いになり、シリが主人公的位置に立つが、完全にはそうではない。物語の展開と物語のタイトルの乖離が著しくなってきたとき、シリをウィッチャー少女と呼ぶことでそれを回避しようとしたように見える。たしかにそうだけど、遅きに失した感がある。歴史絵巻みたいになっちゃったから。

本作品は連載作品で、人気だったという。
この物語の展開と結末は、なるほど、そうなんだろうなと思う。かつて読んできた人気連載作品の展開と結末で、いやというほど知っている。
1巻はとても好きだったのだが、まことに残念ながら、2巻以降の展開で、1巻の雰囲気は維持できなかった。まことに残念だ。

幻のアフリカ納豆を追え! : そして現れた<サピエンス納豆>

本来、儒教が強い韓国にキリスト教が普及した要因としては、日本植民地時代にキリスト教会が抵抗運動を行ったとか、韓国に伝統的なシャーマニズムキリスト教の相性がよかったからだといった説があるようだが、カンさんは独自の見解を持っていた。
「もともとキリスト教は自分だけが正しくて、他は全部まちがってるという考えでしょ? 韓国人もそう。みんな、『俺が正しくて他のやつは全員間違ってる』と思ってる。だから、合うんじゃないかな」

P.136

インパクトの強いタイトルに惹かれたことは間違いない。近頃、いろいろな方面、特にハードカバーの書籍にはタイトルに騙されたと感じることが多いのだが、凝りもせずにひっかかる。だが、本書についてはそんなことはなかった。

タイトルの印象から察せられるように気楽に読める内容で、大いに楽しめた。眉に唾をつけるという類のものではなく、好きが高じて現地まで行っちゃったというノリが。
バオバブ納豆というものを、ぜひ食してみたい。

妻という名の魔女たち

フリッツ・ライバーは『ファファード&グレイ・マウザー』シリーズで知った。30年以上昔のことである。他の著作は知っていたが手を出さず、ひたすら同シリーズの続刊を待ち焦がれ、待ち焦がれてついに発刊された『妖魔と二剣士』にひどくがっかりした。がっかりした理由は思い出せないが、がっかりしたという記憶だけは残っている。

本書に手を出そうと思った理由も、今では思い出せない。
1年か2年か、もう少し前に、本書の存在を知った。現代で魔術で、ちょっと科学的な感じのものが読みたかったのかもしれない。ハロルド・シェイのような。

ライバーの著作ということで躊躇いはしなかった。どちらかといえば期待していたと思う。
50pを乗り越えると、それは満たされる。ひどく退屈な50pを乗り越えれば。手に入れたのは2019/11頃、しかし退屈で積読状態だった。2カ月くらい前から読書の間のつなぎに読み始めて、乗り越えた後の面白さに出会うことができた。挫折しなくてよかったと思う。
しかしオチはといえば。
そこまでとはいわないが『魔宮バビロン』のような唐突なアレで、敵対者がどうなってしまったのか、イマイチよくわからない。

悪党芭蕉

悪党芭蕉

この言葉から想起されるものはなんであろうか。本文にはそれをこじつけるような描写はあれど、具体的な例についてあげていない。弟子にものすごい遊び人がいたり、罪人になってしまった者がいたり、ろくでなしがいたとして、そういう人物を好んで身内に迎えたというだけでは、当人の悪党性を十分に説明できない。

嵐山光三郎という名前は、三十年くらい前か、クイズ番組かバラエティ番組で目にしていたように思う。何者か興味を抱くことは当時なかったが、『悪党芭蕉』というタイトルに惹かれて初めて作家と知り、著作を読んでみる気になった。

芭蕉という人物、一門について、ある程度の理解のある読者を想定しており、門外漢にはやや厳しい。ゆえに、各小節のタイトルですら詐欺と感じられる。最終章などは、其角という芭蕉の弟子が一門を分裂に招いたということを、その人物像にのみ依拠して語っており、小節タイトル「蕉門分裂へ」を十分に説明していない。

研究書の類は、時に特定の誰か、読者ではない誰かに向けてドヤ顔していることがある。本書はおそらく、芭蕉を聖人扱いする芭蕉ファン向けに書かれているのであろう。

かつて、あとがきを先に読む勢が存在することを知り、その理念を理解せず、理解しようともせぬまま、これまできた。
だが、本書のあとがきを読んで、初めて彼らの理念を理解したように思う。
タイトル詐欺除け。あとがきにタイトル詐欺の言い訳が書いてあれば、not for me を避けることができる。なるほど、本読みの知恵であったか。

熱源

読み終えて数日、読後感に名をつけようと試みてきたが、うまく果たせない。
こんな物語を読んだ時にまず脳裏に閃いてしまうのは『石と笛』だ。

『石と笛』は、偉大なことを成す力をもって生まれたものが道を誤り、最も輝かしい成功からは遠ざかりつつも、それなりに名を成して死ぬ。そういう物語だ。道を誤った課程のみ語られ、名を成す過程は省かれているため、負け犬の物語と読める。カバーイラストが安彦良和氏であるため、その印象は増幅される。
ただ生き死んだ、在った人の物語。語るほどの物語であったのか?という印象はまだ拭い得ていない。

この物語もそうだ。『石と笛』がそうだったように、読ませる力はある。
だが、ピンボケだ。数日考えて、それだけだった。

 

暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて

『夜の言葉』は拝読させていただいた。まだ『帰還』が発表される前のこと、アースシーの世界をこよなく愛していた頃のことだ。

『帰還』は正直、ものすごくがっかりした。作者自身が構築した世界を自ら否定しているような気にさせられたからだ。

以後、ル・グィンの作品からは距離を置いてきた。
逝去されたことを聞いて残念に思いはしたものの、著作を読むなど追悼の儀はとりたてて思うことはなかった。

本作品はエッセイである。だからこそ、『夜の言葉』の良い読後感を思い出したからこそ、読んでみる気になったのかもしれない。

氏に対する「フェミニズムの旗手」という評価がピンとくるほど氏について詳しくないのだが、『帰還』を読んだ時にそういうことなのかと疑い、また自認する風合いが本書から読み取れ、ああ、そうだったんだなと初めて思った。

現在のフェミニズムの風潮は他者を攻撃しすぎる嫌いがある。それが良い時代もあったが、いつまでもそれではいけない。そう本書で氏は述べている。『帰還』はかなり攻撃的だった。

カメロンxイシュトヴァーン本になってしまった未完の某大河小説も攻撃的だった。それまでの読者を、少なくとも一読者を裏切るような作品に変化させたという意味において。

なかなか供養できない思いが残るが、未読の著作に触れて、成仏させられるかどうか試してみよう。