でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

白銀の墟 玄の月

本書を知ったのは発刊数か月前の告知であり、その時まず思ったのは全四巻という構成に対する不安だった。前もって四巻と謳ったからには、上中下完結編123のような悪夢はないとしても、いささか長すぎるのではないかと感じたからだ。
大は小を兼ねるというが、長い作品が良いとは限らない。いいたかないが、『超人ロック』の平成以降のシリーズでそれを学んできた。1シリーズ四巻構成は商業上の理由でしかないと強く感じられた。ファンは買うよ。そりゃね。だが、キング時代の小さなコマ割りで、2巻構成が理想だと思いながら、買っていたよ。

次に思ったのは、そういや蔵書を処分したんだっけということだった。告知からさかのぼること半年ほど前のことである。
ホワイトハート版を手放すことにいささかのためらいはあったものの、十何年も新刊が発売されなかったことに、もはや続刊は望めまいと手放してしまっていたのだった。おりしも何年も新刊が発刊されなかった別のシリーズの最新刊を読んで、好みに合わなくなってしまったことを痛感したあとのことであり、変な勢いがついていた。

ゆえに、本書に手を出すことをためらっていた。全四巻という構成は、好みに合わなくなっている可能性を強く印象付けている。好みだった場合、シリーズ全巻を手放したことをすごく後悔することになる。だがまあ、興味には勝てなかった。

本書はミステリ仕立てである。
ミステリは好みに合わないジャンルだ。『犯人たちの事件簿』がその理由を明確に説明してくれるまでしかとは理解できなかったが、トリックにリアリティを感じられないことが最大の理由である。トリックが面白いとか感じるよりも、「え、そんなことする?」と感じてしまう。『羊たちの沈黙』以来、おサイコさんという概念が大手を振って歩くようになり、トリックや動機のリアリティがさらに減じた。なにをやったとしても、おサイコさんだから仕方ないよね? アホか。
ミステリへの苦手意識は募る一方であり、生涯改まることはないと思う。ミステリではなく冒険小説という体ならあるいは。シャーロック・ホームズや、怪盗ルパンは楽しんでいたから。

ゆえに、驍宗の行方を追うくだりを楽しめなかった。本書を構成する3/4を苦痛と共に過ごしたことになる。物語の焦点がぼやけている印象がずっと続いていた。人物や出来事が焦点ではなく、トリックが焦点であったからだろう。トリックはやはり肌に合わない。六年だか七年の空白は、ミステリ特有のトリックの強引さとしかみえなかった。
24章、25章に至って、ああ、これが十二国記だと思えるようになった。それまでは本当に苦痛だった。

本シリーズは、「月の影 影の海」「風の海 迷宮の岸」「東の海神 西の滄海」と読み、『魔性の子』に到達したクチなので、シリーズの主役は赤子と感じている。シリーズがまだ若いころはそうは思わなかったが、「黄昏の岸 暁の天」の頃には泰麒が登場する話は暗くてかなわんと思うようになった。
赤子は中華風ダークファンタジーという印象で好みと一致するが、泰麒はハウスこども名作劇場な感じだからだろうか。ハウスこども名作劇場は、子供心に、かわいそうで見てらんなかった。同じ理由かもしれない。違うかもしれないけど。

「黄昏の岸 暁の天」ではまた、著者はステップを踏み誤ったと感じた。天の描写を急ぎすぎたと感じられた。似たようなところだと、ハルヒハルヒのライバルが登場したときに感じたものだ。作品にとって致命的な誤り。作家がこれ以上進めなくなってしまう自縄自縛の罠。

本作品で著者は、琅燦を用いて自縄自縛を解いたかに見える。
しかし、続刊は期待できるのであろうか。