でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

ライアーズ・ポーカー

 これにはりっぱな理由がある。経済学は、投資銀行家たちの最も基本的なふたつの要求を満たすのだ。まず。投資銀行家は実践的な人材を求める。実践的というのは、学歴より職歴に重きを置くことだ。経済学は最近ますます難解になり、役に立たない数理的論文ばかりを生み出して、今ではふるい分けの道具としての存在価値しかとどめていないように見える。つまり、ほんとうに好きで経済学を勉強する人間など、ほとんどいない。学問的な興味は皆無で、むしろ、自己犠牲の儀式という色合いが濃いのだ。もちろん、ぼくにはそれを証明することはできない。経済学者たちの言う場当たり的経験主義にもとづいた荒っぽい仮説だ。その実、彼らは妙ちきりんなグラフを描くことに時間を費やしていた。いや、彼らのいうことは正しい。それだけに、いっそう腹立たしさがつのる。経済学は実践的な学問だ。就職の役に立つ。そして、それはなぜかといえば、経済が人生のすべてに優先するという信仰を持っているあかしになるからだ。
 投資銀行家はまた、あらゆる排他的集団の構成員と同様、自分たちの人材採用技術の論理に一分のすきもないことを信じたがる。不適格者はけっして門をくぐれない。このうぬぼれが、自分たちの運命は自分たちの手中にあるという思い上がった信念と固く結びついている。経済学のおかげで、投資銀行の求人担当者は応募者たちの学業成績を直接比較することができる。ただひとつ不可解なのは、経済理論(それこそが経済学部の学生に求められる知識なのだが)が投資銀行の業務にほとんど役に立たないという点だ。結局、採用者側は一般教養の順位付けテストとして経済学を用いていることになる。

P.34

 成功した秘訣は、と水を向けられて言う。
「近眼ばかりの国で、おれだけ眼鏡をかけてたのさ」

P.98

 株の世界の人間は、しかし、本音のところでは、書物で得た知識や学校教育など、生身の体験以外のものをあまり重視していない。その立場を弁護すべく、株式市場の伝説的人物ベンジャミン・グレアムの言葉が引かれている。〈株式市場においては、数理計算が高度で複雑になればなるほど、そこから導かれる結論は不確かで投機的なものになる。……算術やもっと込み入った数式が用いられるときは、相場師が理屈に経験の代理を務めさせようとする注意信号だと見てまちがいない〉

P.104

…才能ある若いモーゲージ・トレーダーの流出を食い止めるために、マイク・モーターラーは社交術に頼らざるを得なくなったが、効果の点ではとても札束に及ばなかった。

P.98

「これはぼくの説だけど」と、プルーデルシャル・ベーチェの執務室で語るのは、アンディー・ストーンだ。「ウォール街の会社は、最も優秀な生産者を管理職に取り立てようとする。管理職になることが、現場でいい成績をあげたごほうびというわけだ。優秀な生産者というのは、気性が荒く、競争心旺盛で、神経症や偏執症の傾向を持つことも多い。そういう人間を管理職に据えると、足の引っ張り合いが始まる。それまで現場で発揮していた本能的な力のはけ口がなくなるからだ。たいていの場合、生産者は管理職には向かない。四人にふたりは、能力不足で脱落する。残ったふたりのうちひとりは、抗争に負けてはじき出される。最後に残るのは、一番あくどい人間だ。ウォール街に浮き沈みの周期があるのも、ソロモンが今つぶれそうになってるのも、そのためだよ。あくどい人間ばかりでちゃんとした商売ができるわけがないのに、はっきり失敗だとわかるまで、そういう人事を改めないからさ」

P.238

 ジョン・グッドフレンドとトム・ストラウス(わが社の海外事業を統轄していた)は、いずれごく少数の投資銀行がほんとうの意味でグローバルな企業として勝ち残り、敗者は国内での事業に専念せざるをえなくなるだろうという、ウォール街によくある未来像を描いていた。そのごく少数のグローバルな銀行が寡占体制を敷き、資本調達価格を引き上げて、ますます栄えていくというわけだ。グローバル・クラブに加入できそうな会社として常に話題にのぼるのが、日本の投資銀行ノムラ、アメリカの商業銀行シティコープ、それから、ファースト・ボストンゴールドマン・サックスソロモン・ブラザーズといったアメリカの投資銀行だった。ヨーロッパの銀行? 名前さえ、思い浮かばない。

P.263

経済に興味のなかった個人が、疑念からいろいろと拾い読みするようになった。
本書の存在は『経済学はどのように世界を歪めたのか』の注釈欄から知ったもので、事前にそれ以上の評価は知らなかったが、抱いていた疑念の多くを裏付けてくれる内容を持っていた。

物語としては、おそらく意図的に世間知らずの学生風の視点で描かれた前半は、ちょっと辛い。その時分を経験している者にとっては多分。社会人となったばかりの後半は、一転して小動物のような可愛さがあり、前半とのギャップに萌えるかもしれない。本書の表現を借りるならば、「下等動物」になりはててしまっていることと対照したというところか。

経済に抱くようになった疑念とは、主導者が重要視する経済指標は、本当に指標たり得ているのかということだ。景気が回復したと宣言されても、下々の身分としては全く実感ができない。経済学というものがあるが、そんな学問が存在するならば、日本のバブル以後、少なくとも二度、恐慌が発生したのは何故なのか。

いずれ訪れるコアダンプの時まで有限の資源を奪い合ってひた走り、コアダンプをもってプロセスを終了する者が必ず発生する経済の仕組は、成長を保証しているのだろうか。本書では投資銀行の業務のうちモーゲージ債を主に描写しているが、虚業もいいところで、筆者はゼロサムゲームと表現している。ソロモン・ブラザーズが乗り切れなかった商品としてジャンクボンドというものがあり、これが発端となってM&Aが熾烈に展開した。あらゆるものに値段をつけるのは資本主義の本懐かもしれない。歴史的威光だけで信任を得ていた格付会社の怠慢であるのかもしれない。企業を評価する別の指針が登場して、実業が虚業に食い荒らされる事態が出来した。

日本人はかつてエコノミック・アニマルと表現されたが、資本家を食い荒らす虚業の執行者をなんと表現すべきだろうか。詐欺師の側面もあり、寄生虫の側面もある。集中した資本をよそに流し得たことだけを見れば革命者とも言えなくもない。
そんな連中の成したことを肯定し追従するということは、自分も「成功者」になりたいという欲からのことであろう。決して、経済成長などに目が向いているとは思えない。

本書は1989年に発表された。このときすでに、GDPだかGNPの負債比率が増加していることを指摘している。ノンフィクションの体裁とはいえ、小説で表現されているのだから、エリートたちも気づいていないわけではなかっただろう。経済成長の指標とされるものに負債の比率が増加しているということは、成長とは前借にすぎないと。
順調に成長を続けるならば、当面問題は発生しないのかもしれない。前借の額がどんどん大きくなるのか、それとも前借が減り、本当の意味で豊かになるのかは不明である。しかし、それはコアダンプの時が訪れるまでの猶予でしかない。前借の額が大きければ大きいほどスケープゴートは増えるだろう。

手数料を得ることに活路を見出していた業種が、依存度が高まるようになって市場を支配するようになる。個人的に身近なところだと、人材派遣業にそれを感じる。人を欲する側が、自己の要望を正確には理解しておらず、商品を希望する。商品を紹介する側も、商品の性質をよく理解しておらず、立派なラベルを張って高値を付ける。人を欲する側の依存度はもはや紹介者なしに成立せぬようになっているから、不良品を返品したとしても次を求めざるを得ず、万が一の良品に賭けるしかない。
手数料業者はなにも生み出していない。そのくせ、仕組みを利用して高額をかすめ取る。真に生み出す者を踏みにじりながら。そうして生まれた経済成長は、本当に成長を示す指標たり得るのだろうか。