でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

経済学はどのように世界を歪めたのか 経済ポピュリズムの時代

「データサイエンス」と言われる分野の急速な発展は、経済学が多用してきた仮説演繹法あるいは純粋な演繹的推論による理論構築を、枚挙的帰納法による分析が駆逐していくプロセスであると言えるかもしれない。RBC理論からDSGEモデルに至る過去30年以上にわたる主流派のマクロ経済学は、非現実的かつ強力な仮定からスタートした純粋に演繹的な理論を、さまざまな統計分析手法を使用した仮説演繹法のような帰納法的推論によって現実データに対する説明力を強引に持たせるようにした理論であると言える。

P.400

 

バブルの頃は学生で、それがどのようなものであるのか大雑把にしか知らなかった。たまにTVで「バブルはいつはじけるか」的な警鐘を鳴らす論調を見ることもあったが、それが憂慮されていないということは、なにかしらコントロールされているんだろうと思っていた。

はじけてから数年、地方都市には影響は目に見える形で波及していなかったように思う。父親がマンションを建て、その返済が自分の肩にかかるとはっきり認識してもなお、経済には興味が持てなかった。

地元を離れて就職し、地元に戻ったとき、バブル消滅の影響が強く感じられた。マンションとなり果てた自宅は明らかにその遺物であったし、それを計画した父も、計画の手助けをした工務店も銀行も、誰もまじめに計画を考えていなかったことがはっきりと理解できた。それでも経済学には興味は抱かなかった。

リーマンショックを経てようやく経済学に疑問を抱くようになった。
バブルという例があったのに、似たような例を繰り返すことを許したのは何故か。経済学というものが機能しているなら、そういうことは許さないのではないのか。

まず着手したのは、現代日本がどうやって形成されたのかを知ることだった。これは継続中だが、今のところ、大航海時代と西欧の帝国主義が前代の日本を築いたという理解に落ち着いている。昭和を語るにはそれを踏まえる必要があり、現段階では、昭和までの日本はそれなりにうまくやってきたのではないかとも感じている。
この過程で、バブルの前段たるプラザ合意というものにも触れた。

バブルというものについて学び始めたのは消滅から三十年も過ぎた後のことで、その時、経済学には()が足りないと思うようになった。あるいは、学問を名乗るなという強い思いを抱くようになった。哲学も学を冠してほしくないのだが、思想と読み替えることで心の平静が保たれる。経済学にはそれができないので、経済思想あるいは経済研究と名を変えるべきではないかと思う。いずれにせよ、現実社会に適用できるレベルの学問ではない。
国家や人々の動向に関与できるものではないと、はっきりと烙印を押されるべきである。

個人的に接してきた他の学問と比べると、1990年代のAI研究に似ている。パラメータ調整的な操作が主で、これが学問なん?と強く感じられたものだ。現実に寄せるための恣意的すぎる操作を研究と称するのは、本書でいうところの「合理的経済人」のような極端なモデルではなかったにせよ、だいぶ強引であったという印象がある。

そういえば、数年前のこと。「景気が悪い」という誰かの発現に対して、そんな発言をするのは株をやってないからだという反論があった。ゲーム作家であり文筆家である人物の発言だ。近頃はそういう発言を見なくなったのだが、単に話題が出ないだけか。はたまた、買い支えられている株価をして景気動向を語ることに思うところがあったのだろうか。
 

関連書籍:
『無縁・公界・楽』網野善彦 平凡社選書1978年
 引用元より:網野の著作は多数に及ぶが、周縁と市場ということでは『無縁・公界・楽』などが有名。
『ライアーズ・ポーカー』マイケル・ルイス 角川書店1990年