でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

幻想の経済成長

 実際に起きた最悪の事態とは、金融システム全体が崩壊寸前に陥った結果、金融メルトダウンの進行を阻止する最終手段として、数千億ドルもの税金が救済策に投じられたことだった。これまで何度も指摘されているように、金融業とは富裕層にとっては社会主義だが、それ以外のすべての層にとっては資本主義なのだ。

P.92

 二〇一六年八月、欧州委員会(EC)は、過去最大の追徴課税の判断を下した。アイルランド政府に対して、アップルに一四五億ドル(約一・六兆円)を利子付きで追徴課税するように命じたのである。ECの説明によれば、アップルは、怪しげな利益配分スキームを実行し、利益の大半をアイルランド南部のコーク市郊外にある「欧州本社」に移していたという。その結果、アップルは事実上、ヨーロッパのどの国においても税法上の居住者になることを免れたため、同域内で支払う税率を一%以下にまで縮小させたのだとECは主張している。一方、アップルの最高財務責任者(CFO)は、これらの指摘は「法的に無意味なたわ言」に過ぎず、アップルに対する課税額の計算も「誤った分母と誤った分子」を用いていると公式に反論している。だが、これはつまり、それ以外の点では、ECの指摘は正鵠を射ていたということかもしれない。

P.112

 GDPは国民国家の観点から考案されたものだったが、今やますます多くの企業が国境を越えて経営を行うようになっている。もともと国家単位の経済指標としては国民総生産(GNP)が用いられ、どこで就職していようと、その国の国民が生産したすべてを測定していた。だが、アメリカではジョージ・H・W・ブッシュ大統領の政権下で、今ではすっかり慣れ親しんだGDPに変更され、それ以降は外国人によるものも含めて、国内で生産されたすべてが測定対象となったのである。この変更が行われた理由は、ブッシュ自身が経済に強いことを証明する必要があったためかもしれない。GNPからGDPに切り換えた結果、アメリカの自動車産業とエレクトロニクス業界に多額の投資を行った日本企業の生産高が統計に含まれるようになり、数字の上ではアメリカの経済成長率を増加させたからだ。

P.114

 牛(牛文元、ニュウ・ウエンユエン、著名な経済学者で、国務院(中国の内閣)の顧問を務めており、二〇一一年には環境保護と持続的成長に関する業績によって、中国政府から表彰を受けた)が提案したグリーンGDPは、経済学者が外部性と呼ぶものに配慮するよう設計されている。負の外部性(外部不経済)は、財の生産から生じる記録されない副作用だ。たとえば、鉄鋼やプラスチックの生産工場は、有毒な化学物質や微粒子を排出することで、河川や大気に深刻な環境被害をもたらしている可能性がある。この工場が製品を作って利益を上げている限り――それは経済活動として正式に記録されるわけだが――誰もが健康状態の悪化や浄化処理費用を捻出するための増税という形で被害を受けることになる。生産者は、こうした隠れたコストをひそかに社会に負担させることができる。従来の経済成長の尺度は、これらをマイナスとして記録しないだけでなく、あまりにも多くの場合、プラスとして計上する。その結果、有害物質で汚染された河川の浚渫作業、癌患者の治療、早すぎる死を迎えた被害者のための立派な葬儀などは、すべて経済活動として記録されるのである。ある著者は、現在の経済成長の尺度が社会悪を魔法のように消してしまうことから、それを「統計のコインランドリー」と呼んでいる。一方、経済活動や資産がもたらす便益には統計に表れないものもあり、これを正の外部性と呼ぶ。都市に緑地を作るのは、その場所に製鉄所を建設できることを考えれば、経済の足を引っ張る行為のように思えるかもしれない。だが、公園はレジャー、ストレス緩和、精神的充足感といった形で医療費の節約につながる可能性が高く、目に見えない経済的便益をもたらしているのだ。

P.176

 資産(ストック)を統計に含めるべき第二の理由は、今日の行動が未来の世代に重大な影響を及ぼすからだ。現在の国民所得を記録したところで、世代間にまたがる問題の決定には、なんの役にも立たない。それは、未来にどれほど重大な影響を及ぼそうと、現在の経済成長を最大化すべきだというシグナルを送ることになるだけだ。極端な場合には、ある世代が二桁成長を実現するために、国内の森林資源と石油埋蔵資源をすべて消耗し尽くしてしまい、未来の世代が何とかするだろうと問題を先送りにする可能性も考えられる。今日、そうした政策を推進している政府は、経済の急成長を理由にその行動を正当化しようとしている。だが、そんな国で富の測定を行えば、急激な減少を示す結果となるだろう。それはトレードオフの内容を明確に提示することで、少なくとも有権者に不安を抱かせるはずだ。ニュースの見出しとしては、「富が五%減少」には「経済成長率が三%突破」ほどのインパクトに欠けるのが玉に瑕だが。富の現状を把握することは、今の世代が子供や孫たちにどんな未来を残すことになるのか、より明快に認識する機会を与えてくれるはずだ。
 これと密接に関係しているのが、と見について考えなくてはならない第三の理由で、それは持続可能性の問題である。はっきり言ってしまえば、富を測定することは、文明崩壊の回避につながるかもしれないのだ。南アメリカ大陸から三〇〇〇キロ以上離れたイースター島は、かつて繁栄した文明が崩壊した例としてよく知られている。神秘的な人面の石像彫刻「モアイ」で有名だが、今やそれらの彫刻像は打ち捨てられ、荒廃したままになっている。一七二二年の復活祭(イースター)の日に、オランダの探検家ヤーコブ・ロッヘフェーンによって「発見」された時、この島にはすでに三メートル以上の樹木は一本も生えておらず、荒涼とした草原と化していた。また、かつて優れた航海術を持つことで知られたポリネシア人が島に定着していたが、もはや技能が衰え、老朽化したカヌーで近くを回遊するのがやっとだった。多くは洞穴を住居にしており、ようやく食べていけるだけの惨めな生活を送っていた。それでも、イースター島にはかつて、まったく別の光景が広がっていたのだ。紀元四〇〇年前後に最初の入植者が到着した当時、島には樹々や茂みが密生し、多くの野生動物が生息しており、住民たちに豊かな食生活をもたらした。一二〇〇年までには、島民たちは島の一部で発見された石から巨大な人面像を掘り始めており、丸太やロープを使って数キロ離れた海岸まで運び、巨大な石の台座の上に設置するようになった。
 彼らは、人面像を運搬する丸太だけでなく、薪、家の建材、カヌーの材料として使うために樹木を伐採した。だが、島民たちはある時点で、文明そのものの最後の砦である樹木の最期の一本を切り倒してしまったはずだ。彼らは一体どうして、そんなことをしたのだろう? 実際には、環境破壊はこれほど劇的な形で行われたわけではない。それは長い時間をかけて、ゆっくりと起きたはずである。まるで少しずつ水温が上昇している風呂の中で、気付かないうちに茹で殺されてしまったカエルのように。イースター島の文明は、ある日突然、大音声とともに(あるいは、最後まで残った一本の樹に斧が振り下ろされる音でもいいが)崩壊したわけでなく、最後を悟ったカエルのように哀れな鳴き声を上げながらジワジワと衰退していったのだ。ロッヘフェーンが上陸した頃までには、人口は最盛期の四分の一から十分の一の間にまで減少し、動植物はほぼ絶滅した状態で、文明は崩壊していた。かつてネズミイルカや魚介類をはじめ、豊かな食生活を楽しんでいた島民たちは、どうやら人肉食にまで追い込まれたようだ。この島で相手を愚弄する時の最も「挑発的な悪態」は「おれの歯の間には、おまえの母親の肉がはさまっているぞ」というものだった。
 イースター島は、地球の縮小版であり、住民が生計を依存している富の縮小を放置したままにしておけば、社会に何が起こり得るかという寓話にほかならない。アメリカ北西部で働く伐採者たちは、「樹木より仕事を」を合言葉に、環境保護より雇用確保を優先すべきとの主張を繰り返してきたが、博識で知られるアメリカの地理学者ジャレド・ダイアモンドは、これを例に挙げて現代社会も突然の文明崩壊に直面しないとも限らないと語っている。現実は間違いなく、その方向に向かっている。
「人類が現在のやり方をこのまま続ければ、[数世代のうちに]世界の主要な漁場、熱帯雨林化石燃料、それに土壌の大半を枯渇させてしまうでしょう」と彼は言う。「もしかするといつの日か、ニューヨークの高層ビル群は廃墟と化し、アンコールワットの寺院やティカルのマヤ遺跡のように植物がはびこるようになるかもしれません」

P.196

 国の発展には、実に面倒で厄介な側面がある。たとえば、一九九九年までブータンではテレビが禁止されていた。だが、それが合法化されると、ブータン国民は一転して、レイヤードの言葉を借りれば「サッカー、暴力、性的裏切り、一般消費者向け広告、レスリングといったお定まりの」刺激にさらされるようになった。(だが、テレビがこれだけ問題視されるなら、無防備で哀れなブータン人が、インターネットに接続した時にはどんな騒ぎに発展するか、先がおもいやられるというものだ。)テレビの視聴は、予想どおりの結果をもたらした。家庭崩壊、犯罪率の上昇、麻薬乱用の増加、それに校内暴力などである。問題は、この情報をどう扱うべきなのか、判断しにくい点にある。様々な誘惑に満ちた現代社会との接触が、必ずしも幸福度の向上に結び付かないというのは、間違いなく真実だ。私たちは、近代以前の社会を理想化することがあまりにも多いが、その結果、非識字、男性支配、健康度の低さといったマイナス面を軽視しがちである。それでも、文明から隔離されていた方が幸せでいられる可能性があることは、少なくとも認めざるをえないだろう。だが、それが重視されるあまり、公共政策にまで影響を及ぼすとなると、家父長主義やあらかさまな権威主義の危険はもはや無視できなくなる。

P.256

 GPIは、大気汚染、水質汚染、それに森林や農地や湿地の喪失といった負の外部性を差し引いて計算される。同様に、正の外部性はプラスとして勘定される。その中には、公営プールの建設が地域社会にもたらす精神的・身体的健康状態の改善といった、投資による目に見えない利益が含まれている。オマリー知事は一時期、公共交通機関の利用者数を倍増させる政策を推進していた。「データをGPIの観点からごりごり分析してみたのです」とマグワイアは当時を述懐して語った。「実際の数値データを使って政策分析を行った結果、実際に、納税者全体として利益を得られることを証明できました。公共バス関連の支出が若干増したかもしれませんが、通勤、自由時間の喪失、自動車による汚染、再生不能資源の利用といったコストが減少する効果を考えれば、市民を説得するのは難しいことではありません」
 マグワイアは、GPIは政策決定に有用なツールというだけでなく、GDPよりも実際の経済状況に対する感度が高い尺度であることを証明したと語っている。彼がこれを説明するために引用したデータは、金融危機の壊滅的な影響がアメリカ経済に波及した二〇〇九年のものだった。その年のメリーランド州の州内総生産(GSP、州レベルのGDPに相当)は、危機の影響にもかかわらず、実際に三.八%上昇していた。マグワイアは同じ部門の上司に送ったメモで、州民が実際に直面している経済的苦境を考えると、この数字は「ほとんど信じ難い」と報告している。一方、それとは対照的に、その年のGPIは六.三%減少した。つまり、GDPとの間で一〇%もの大差が開いたことになる。彼によれば、GPIが経済の実態を「より正確に」反映していた理由の一つは、政府が大幅な支出削減を行った結果、二〇〇八年には九〇億ドルあった純設備投資(減価償却を除いた部分の設備投資)が、二〇〇九年にはマイナス一〇億ドルにまで激減した事実を取り込んでいたためだという。それ以外にも、フルタイムの職を希望しながらパートタイムで勤務する層や、採用の見込みがあまりに薄いので求職活動を諦めてしまった層も含めて、失業や不完全雇用の実態に、GPIがより敏感に反応したことも一つの要因だろう。

P.275

 二〇一六年に発表されたカナダ幸福度指数は、すでに大きく開いていた幸福度とGDPの差が、二〇〇八年の金融危機以降にさらに拡大したことを明らかにした。「二〇〇七年には、GDPとカナダ幸福度指数の間には二二%の開きがありました。二〇一〇年までに、その差は二四・五%に広がり、二〇一四年までには二八・一%にまで拡大していました」。だが、なぜこんなことになってしまったのだろうか? その理由の一つに、二〇〇八年の景気後退からの回復は、経済成長をもたらしたにもかかわらず、良い就職口はもたらさなかったことがある(メリーランド州でも同様だった)。その結果、職業の安定の指標は下がり、格差の指標は上昇した。カナダ国民が家計をやりくりするために今まで以上に働き、以前より仕事を休まなくなり、ボランティア活動や文化的活動に参加する頻度が減って、休暇を減らした結果、「余暇と文化」の品質も急激に低下した。プラス面としては、教育の質は経済成長と同様のペースで向上しており、地域社会の結束も以前と変わらず強固だったことが挙げられる。経済成長に関する公式な統計では、これらの詳細はすべて、景気が回復したという単純な事実によってかき消されてしまった。

P.279

 最後に、最も物議を醸している指標を取り上げることにしよう。二酸化炭素排出量の測定は、自然資本の状態の変化を追跡するには、最も手軽な方法だ。これなら、森林や河川流域の貨幣価値を評価するという厄介な問題だらけの取り組みに依存する必要はない。二酸化炭素排出量、環境汚染の進行度を示す数値としても利用価値がある。「人間が地球を丸焦げにしていると言われていますが」とアメリカの経済学者ジョセフ・スティグリッツは語っている。「それなら、本当に人間が地球を丸焦げにしているのか、確認する必要があります」
 この指摘は、本書のこれまでの説明で火を見るより明らかになったはずの事実を浮き彫りにしている。つまり、中立的な統計は存在しないということだ。また、統計は決して退屈な代物ではない。それは、きわめて政治的な性格を帯びている。私たちが何かをわざわざ測定する理由は、その重要性が分かっていて、それに影響を及ぼしたいと考えているからだ。

P.293

正統派の考え方にとらわれない、ある型破りな経済学者は次のように書いている。「数学を用いることで経済学は厳密さを増した。残念ながら、それは同時二、この分野を死体のように硬直化させてしまった」

P.299

 数学者と統計官と経済学者が同じ仕事に応募してきた。
 面接官はまず数学者を部屋に呼び入れると、「二足す二は何になるかね?」と質問した。数学者は「四です」と答えた。面接官は、次に統計官を呼び入れると、同じ質問をした。統計官は「平均すると四になりますが、一〇%ほどの誤差が出る可能性があります」と答えた。最後に経済学者が呼ばれると、「二足す二は何になるかね?」とまた同じ質問が繰り返された。経済学者はおもむろに席を立つとドアの鍵を掛け、ブラインドを下ろして、面接官のすぐ横に座り、彼の耳元でこう囁いた。「二足す二が何であれば、あなたのお気に召すのですか?」

P.311 訳者あとがきより

 

経済というものに明確に興味を抱いたのはいつのことだろう。
プログラマーとして世に出たが、社会人になって数年、あまりにもアレな管理下の火祭りを渡世するうちに自然とコスト意識は身についたが、経済学的なものではなかった。

心当たりとしては、Civ4を遊んだあたりからだろうか。手元の記録だと2008年1月のことだ。たぶんそこで、普通選挙表現の自由奴隷制と自由市場が並立できるという衝撃に身を委ねた。
時を同じくして、第二次世界大戦前夜のことに興味を持ち始め、日清戦争、シベリア出兵、日露戦争について記された書物に触れ、帝国主義が世界のルールだった時代があったことを強く意識した。西欧世界が定めたルールはダブスタで、俺たちゃいいけど、おまえはダメというのが太平洋戦争を避けられぬ運命にしたと解釈することになった。
その背景にあったものが資本主義、経済であることを自覚することになった。

だから、Fate Extraでトワイス・H・ピースマンが主張するところが理解できない。あの主張がゲーム世界内での出来事に由来するとしても、現実のなにと対照させようとしてあのようなことを言わせたのかわからない。FF7セフィロスのこじらせっぷりと同程度の味付けと見なすしかない。
現実には「人類が受け取るべき収獲期」など一度も訪れていない。資本主義は未来に前借りする仕組みに過ぎない。熟れた果実はある。しかしそれは定期的に収穫されている。口にできるのはごく一部の層だけだ。

とある、作家にしてゲームデザイナーは数年前に日本の景気は回復しているといった。株をやればわかる。そう言った。
ゲーマーとは、手段を問わずゲームに勝ちに行くもののことをいう。時に、できることであるならば卑劣と見える手段に訴えてでも勝ちに行く。ゆえに、彼は株をやり、おそらくは利益を得て、景気回復を主張したのだろう。それが頭上を過ぎていくだけの立場のものには実感できないとしても、勝ちにいける方法があるのになんでやらないの?という感覚なのだろう。

経済学というものは実学ではない、哲学の域を出ていないと、ある時、ある会社の社長と雑談をしているときに放言してしまったことがある。この本を読むまでそれは手前勝手な思い込みに過ぎなかったが、1950年代にはまだ現代的な経済観念は世界に存在しなかったと教えられれば、それは間違いではなかったのだと思える。
先日読んだ『世界を変えた14の密約』は、その内容についてはやや眉唾であるが、数字とは都合よく操作して詐欺を働くためにも用いられると明記されていた。本書もそれを肯定している。