でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

ロード・エルメロイII世の事件簿 2「case.双貌塔イゼルマ」

ミステリーが嫌いだ。

80~90年代にテレビでやっていたような事件ものドラマにおいて、まず自身のそんな特性に気付いていった。金田一少年の裏事件簿ではセルフパロディとして犯人たちの行動をネタにしているが、当時、そのようなことを思い至るにあたり、楽しめなくなってしまった。テレビドラマばかりではなく、いわゆる探偵小説も同じ理由で、次第に読まなくなっていった。

ミステリーの潮流には、少なくとも日本のそれには『羊たちの沈黙』以後という潮目が感じらる。個人的にはそういう作品を「おサイコさんもの」と表現している。同作品のサイコ部分だけ都合よく切り取り、犯人の動機は犯人がサイコだからという、ミもフタもないものだ。

前者はフーダニットとハウダニットが、後者はホワイダニットが重視されているように思う。その意味では本作品も先に述べた潮目のあとに連なる作品ではあるのだろう。
だが、それを唾棄しているように感じられる点で、すくなくとも作中人物がそれを一蹴している点で、一線を画している。個人的にはギリギリのラインであり、嫌いになっても不思議ではない。特に、種明かし以後の展開は実に危うい。

ミステリーファンは、このジャンルのどの辺に魅力を感じるのだろうか。仕掛けそのものだろうか。
個人的には、物語として破綻していると感じられる作品は楽しめない。ミステリーについては謎が大仕掛けで凝っていればいるほど物語として破綻していると感じられる(犯人たちの事件簿がそれを示している)。ミステリーでなくても、ネタ晴らしパートが探偵の推理公開タイムになってしまっている作品は同じように感じる。近頃でいうと『風と行く者』だ。

謎解きのカタルシス、探偵役のカッコ良さ。これらも魅力の一つであろう。
しかし、これらを表現する際に、周辺を落とすことによって主役を引き立たせる、作者という神の視点から読者を揶揄する、そんなやり方が用いられていると感じられるようになってからは、これらに感じ入ることは少なくなってしまった。
自身は「著者より頭のいい登場人物は登場できない」とかねてから主張するもので、今もこの意見に変わりはない。近頃それに反証する例を目にしたが、反証の言い分が「頭のいい設定」にすればいくらでもできるじゃんというものだった。いや、そうでなくて。

近頃は概念も詳細化して、通じるかどうかはどうかとして、様々に現象を表現できるようになった。「地頭の良さ」はその一つ。前言についてこの言葉で説明を試みれば、「地頭の良い」キャラクターをそのように振舞わせるためには、それを表現する者にそれなりの下地は必要だということになる。頭がいい登場人物ならば、振る舞いや言動にそれが顕われていなければならない。品の良さとか言葉づかいではない、上っ面ではない知性なり品性の表現が必要になる。例えばガッツは脳筋として描かれていたが、己の力を知り抜いたうえでの狡猾さないしは知性が描写で読み取れる。あるいはアッシュは・・・頭の良さ表現が秀逸すぎて、『バナナフィッシュ』はアッシュ神話になり果ててしまった。作中の文明レベルを低く設定して、登場人物の神童ぶりを表現した例としては『辺境警備』の神官さんはとても良かった。
作者だからこそ知りえる今後の展開を予測してみせたから「頭がいい」という表現は違うと思うのである。

さて、本シリーズについて。
まだ読むに耐えるが、完成度が高いだけに瑕疵が気になるという点はあり、セリフや戦闘描写に落差がある。さっきはいい表現だったのに、いきなりナニコレというカンジ?
自覚し改善したものか、1巻で感じた「戦闘描写のアレ」は本巻では減じている。これもところどころ品質の差が激しいが、菊地秀行的超伝奇描写もハマってきている。
次巻はもっと期待していいのかと思えば、きっと続きを読むことになるだろう。