小説 東のエデン 劇場版 The King of Eden Paradise Lost
本編をアマプラで久々に二度目の視聴をした。
一度目で覚えていることといえばミサイルの応酬で終わって残念というものだったが、二度目ではミサイルで始まってるんだからミサイルで終わるのが筋かと思い直し、評価は上昇した。
見るつもりで忘れてたのか、一度目の結末が気に入らなかったからか、劇場版は見ていなかった。今回の視聴でいろいろ調べて存在を思い出し、今時見るならどんな方法が良いかなとさらに調べたら、劇場版の小説版を思い出した。
劇場版を見たとして、気になることがあったら小説版を読むであろうと思えたので、小説版を選択した。
このオチのために、いろいろと無理があり、また台無しになっている。
そんな風に思える結末である。
言いたいことはわかるような気はするが、それを表現するために、底の知れない悪玉が小物になっちゃった観もある。この場合、物部と亜東だが、双方ともに残念な感じで収束してしまった。
なによりも「滝沢」は語り手の意思の具現でしかないという印象が強化されただけに終わったということがある。創作に登場するキャラクターは創造主たる作り手の意思の具現ではあるが、それに操り糸が見えるか見えないかで印象は変わる。彼につけられた操り糸は見えすぎる。脇役や悪役が魅力的に見えるドラマの一要素ではあろう。
彼にまつわる追加エピソードは、キャラクターの肉付けというよりも、ミスディレクションのための小道具としてしか見えず、また謎を残すことによる続編示唆の一部として配されたようにしか見えない。
魅力的な諸々の設定も10年で古びてしまったが、本作品が取り扱った問題は深刻の度合いを深めて進行中である。
小説版を選択して良いと思えたのは、『No.7』が読めたことだろうか。No.3のジュイスがどんなだったか知りたくなる。