でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『困った老人と上手につきあう方法』

 また人間は、自分を認め、褒めてくれる相手だけではなく、自分が頼り心の支えとするような存在も必要とする。これが「理想化自己対象」である。わかりやすい例で言えば、子どもがいじめられて泣きながら帰ってきた時に、父親に抱き上げられ「パパがついているから大丈夫だ」と言ってもらって元気になるというような、自分が強いのだと思わせてくれる、自分に力を与えてくれる存在だ。

 高齢の患者にとっては医師がこの理想化自己対象となることが多いし、政治家や財界人、タレントなど、多くの人から認められ尊敬されている人が意外に宗教に熱心だったり、占い師に傾倒していたりというのも、同様の心理的メカニズムが働いているためだろう。

 無宗教である日本と違い、欧米などでは高齢者においても信仰が理想化自己対象の機能を果たしていることが多い。ところが日本の場合、高齢になると、自分が頼りにしていた人が先に死んだりボケたりすることが少なくないのだ。

P.95

「困った老人」は日本特有の存在か

 では、高齢者の心の危機や、それと結びついた「困った老人」の存在は、日本特有の問題なのだろうか?

 キリスト教信仰が根づいていて教会と地域のつながりも強い欧米などでは、年をとって身体の具合が悪いのも宿命であり、死が近づいているのも神の思し召しなのだというように、人々にとって死が受け入れやすくなっている面がある。

 とくに北欧諸国というのは、福祉が非常にしっかりしている一方で、高齢者に対する医療はほとんど発達していない。日本ならば、自分で食事ができなくなったら、点滴や、鼻から管を通す経鼻経管栄養法で栄養を補給しようという話になるのだが、高齢者が鼻から管を入れられている姿は、北欧ではほとんど見ることはない。スプーンを口まで持っていってあげるところまでは福祉で一生懸命にサポートするのだが、そこまでしても食べようとしない場合、もう本人には生きる意志がないのだ、神のお迎えが来ているのだという解釈で、点滴や管で人工的に生かすことは、むしろよいことではないと考えられているのだ。

 同様に、宗教的な背景で死が受け入れられやすいというような地域は少なくないのだが、宗教が強いから高齢者にとっていいのかといえば、必ずしもそうではない。アメリカのキリスト教原理主義イスラム原理主義などの熱心な支持者には高齢者も多いが、他の宗教に対して非常に不寛容であり、過激で反社会的な行動もいとわない。これもある種の暴走老人であろう。

 宗教はある意味ではとても強い心の支えになる。そのため、あれこれと自己中心的な不平不満を訴えることがなくなる代わりに、やはり感情が老化している人が宗教に傾倒すると、信仰心が度を超して妄信的な信者になってしまうことがある。とくに日本人の場合はそういう面において頼る絶対的な存在を持っていないことが多いから、不安定な精神状態で、目の前に何か大きな存在が現れた時に、そちらに傾倒して生きやすいという部分はあるかもしれない。それが怪しげな新興宗教や詐欺団体だった場合には、さまざまなトラブルを招くことにもなるだろう。

P.112

方法を探し求めていたわけではないのだが、なんか読んでみる気になった。

老人と呼ばれる世代が起こす犯罪が報道されるケースは、我が身が幼少の頃に比べて増加している印象がある。だが、世代と呼ばれるものに対する犯罪発生率が高くなったためなのか、かつてニュースになり得なかったもの(あるいは地方レベルのニュースだったもの)が国内レベルのニュースとして取り扱われるようになったからなのか、それは不明である。

犯罪を含めたケースを起こした老人を、本書では「暴走老人」と表現している。なぜ、老人は暴走するのか。それは脳の衰えによって感情のコントロールが効かなくなったためであるというのが大まかな趣旨である。

脳の衰えによって感情の抑制が効かなくなり始めるのは40代からだそうだ。

本書ではまた、「現代では敬老精神が~」「儒教の価値観が崩れ~」などというような表現がある。敬うとはなんであろうか。強制であろうか。自発的であろうか。自然的であろうか。

相手の背中を見て自然にというのが、個人的な「敬う」である。対象が個から世代に拡大する経緯はさまざまであろう。が、まずは個ではないかと思う。

本書では、社会の変化云々と外的要因を列挙している。あるいは世代でひとくくりとし、あるいは症例としてひとまとめにしている。個が敬うに足る人物であるかどうかは問題にされていない。

おそらく、医療の現場からすると、個の問題とするにはあまりにも症例が多すぎるからだろう。とはいえ、心理学はケースバイケースであると論じるならば、問題は個に帰結することになる。

読み方が悪かったのか、本文とあとがきを対照するとダブルスタンダードであるという印象を得てしまった。

ひとくくりに老齢であるからというだけでは敬えなくなってしまった理由としてはもう一つ、相手の立場というものがあったりするからではないかなとフォローしつつも、そう感じてしまったら胡散臭いという印象になってしまった。

変なことを言ったり、対立する立場にあったりする人物を敬うことはできるかもしれないが、難いことである。

人生に執着する理由がない者ほど、人生にしがみつく。