でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

『アヴァロンの霧』シリーズ

後に続く人類のために一つの神秘、一つの幻の源を残しましょう・・・・・・

アヴァロンの霧シリーズ ハヤカワFT119『円卓の騎士』P.311より、モーゲンの言葉

 マリオン・ジマー・ブラッドリーを読むようになったのは1987年ごろのことだと思う。小説を読むように自ら強いて数年、TRPGに耽溺して数年のことだ。
きっかけはTRPGの雑誌か、他の小説のあとがきだろう。たぶん、TRPGの雑誌からアン・マキャフリイ(『パーンの竜騎士』)を知って、同じく雑誌かあとがきあたりから『ダーコーヴァ年代記』を知ったと思う。初読の頃はまだ初心だったから、なにを思うことなくただ物語を楽しんだ。出版されたものは全て読んだと思う。後年『オルドーンの剣』を再読して著者の性癖を目の当たりにするまでは、ブラッドリーが腐属性を持っていることなど思い至りもしなかったし、本シリーズを読み返すまでは夢属性をも兼ね備えていることにも気づかなかった。

初読のときもすでに気づいてはいたのかもしれない。正直、本シリーズはあまり好きな物語ではなかった印象がある。それは『ファイアーブランド』シリーズにもあてはまる。ゆえに『聖なる森の家』シリーズは未読なのだろう。

読み返してまず思ったのは、「こんなにも一万年と二千年前の物語だったか」ということである。
漫画版『陰陽師』の最終巻あたりは前世エジプトっぽいオリジナル展開がさしはさまれているが、それに似て、明記されていないが前世アトランティス的な雰囲気が本シリーズ序盤で語られている。それはすぐに鳴りを潜めて、なかったかのように、あるいは水面下の穏やかな流れとなるが、結論には関係あるようなないようなカンジで、いらない設定ではないかという思いが強い。物語の方向性を模索した名残なのかもしれない。

次に思ったことは、本書は個人的に嫌う物語性、すなわち「愚か者による優劣の決定」をもつということだ。戦記的な物語によく用いられる手法(具体例としては『銀河英雄伝説』『聖刻群狼伝』など)であるが、我の優秀さを物語るために、彼の愚かさを強調するというものだ。本作品では場面場面で愚か者が流転し、愚か者属性を付与されたものが悪役となって物語が進んでいく。それは主人公であるモーゲンですら免れられず、その意味では公平であるが、その時々の視点となる人物から見て愚か者として断ぜられるのはブオトコ、老人、不具者であり、またアメリカ的な表現でいうところのブロンド女である。ランスロットもまた愚か者の立場を免れないが、それは悲運として語られている。アーサーも同様。イケメンだけがこの法則を免れている。

物語全体としては、アーサーが倒されるしかなかった背景を、古い宗教(=ドルイド教)と新しい宗教(=キリスト教)の対立として描いている。古い宗教が駆逐される様を、アーサー王伝説に重ねたというところだ。
最大の見せ場をアーサーでもモードレッドでもなく、ランスロットに与えてしまったことでテーマ性が浅くなってしまった印象がある。『魔法陣グルグル』でいえば「世界の危機よりラブラブ話よ」というところか。あるいは控えめに表現することで、人の世で最も重要なことは人の営みであり、信仰ではないと言いたいのか。

再読も含め、近年触れたキリスト教圏の作品のいくつかは、かなりキリスト教を批判しているように感じられる。宗教そのものではなく教会組織を批判しているのかもしれないが、本作品中では明確な区別はない。時に宗教そのものを、時にそれに属するエリートを、時に組織をという具合に描写されている。
本作品においては、ドルイド教の女神とキリスト教唯一神は同一であるとしている。人が受け止めた神の表象は数多あれど、その実はただ一つであるという見方だ。

日本人は信仰について無頓着である傾向が強いと評されるようだが、存外キリスト教圏も似たようなもの、慣習的あるいは世間体的に信者しているだけな方々もそれなりにいるのではないかと考えさせられる。