でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『他力』

 彼は究極のマイナス思考から出発して、最終的に人間の存在を肯定し、ブッダ(悟った人)と呼ばれるにいたったわけです。彼の言葉が人々の心を打つのは、究極のマイナス思考から確かなプラス思考をつかみだしたが故ではないでしょうか。
 これまで言われていたプラス思考と呼ばれているものは、じつは安易な楽観主義であり、漠然とした希望であって、本当に生きる力になるようなものとは思えません。本物のプラス思考は、究極のマイナス思考と背中合わせなのではないか。

P.82

「人が社会で生きていくには、愛が必要である」
 とある思想家が語っているのを本で読みました。では、どうすればその愛を獲得できるのか。
 彼は、「愛はナルシズムから始まるのだ」と言います。私たちはナルシズムを自己愛と翻訳していますから、何か自分だけが可愛いというエゴイスティックな愛がナルシズムだと思いがちですけれど、その著者は「自分を愛せない人間は、他人をも愛せない」と言っています。さらに、「自分を肯定できない人間は、他人も否定する。自分を愛せない人間は、他人をも嫌い憎悪する」、だから「我々はナルシズムという幼い愛からでも出発し、それを社会的な愛に発展させていくしかない」と語っているのです。

P.112

 本格的な無常観、本当の意味での無常観が出てきたのが中世でした。津本陽さんの『夢のまた夢』が吉川英治文学賞に決まったときの選考会の席上で、ある作家が、秀吉のような世俗の成功者が、心の中に無常観を抱いているのが面白いと言ったら、別な作家がこう言った。あのころは、「あすはないもの、ただ狂え」というような意味の唄が一世を風靡した時代だった。秀吉だけでなく、つまり世間みなが無常観の中に生きた時代だった。

P.128

 奈良の法隆寺に、近代から現代にかけて傑僧と謳われた佐伯定胤という高僧がいました。その佐伯さんは、雨の日も風の日も、とにかく時代の流れに関係なく、学問の府、法隆寺の伝統を守って、自分のセミナーを開き、講義をしてきました。その弟子のひとりに、田舎から出てきた若い真面目な学僧がいて、彼は予習も復習もし、講義も一言一句漏らさずに聞いて努力してきたのですが、ほとんど佐伯さんの話が理解できません。このため、絶望して、ある日、佐伯さんのところに相談に行き、私は才能がなく、先生の講義が理解できないので田舎へ帰りますと言った。
 そのとき、佐伯さんはその学僧にこう言ったそうです。
「千日聞き流しせよ」
 千日とは約三年です。佐伯さんは何を考えてそう言われたのでしょうか。
 それは、ただ一言一句聞き漏らさないように聞いても本当のことは理解できないし、そんなことには意味がない、と言いたかったのだと思います。意味がわかろうがわかるまいが、ただその肉声を聞け、そうすれば、消そうと思っても頭の中に入ってくるものがあるだろう。信仰の尊さとは、なにも文字からだけではなく、肉声を通じて、毛穴からしみこむように、必ず何かは伝わるものであり、それこそが大事なことだというわけです。
 ぼんやりと自分の意識の外を流れていくような聞き方をしながらも、なお心に残るものこそ忘れないし、これこそ大事なものであるということではないでしょうか。つまり、イージー・リスニングの中で、おのずと心に残るものこそ本当に大事なものなのです。

P.137

48. 自分をはるかに超える仕事をするために

 前に映画のアカデミー賞のデザイン部門で賞を受賞した石岡瑛子さんという、非常に優れたグラフィックデザイナーがいます。その石岡さんがどうしたことか、日本ではあまり旺盛に仕事をしない。それはなぜかと石岡さんに訊いたとき、石岡さんはこう答えました。
「私たちの仕事は、たとえばデザインを考えるだけではなく、写真家とも印刷の現場の人とも仕事をしなければならない。日本で仕事をすると、いろんな事情で、五人のスタッフですと、どうしても仕事のできないだめな人がふたりぐらい加わってくるんです。すると、の凝りの三人が非常に優秀だったとしても、結局、すべてがだめになってしまう。本当にいい仕事をするためには、ジャンクがまじってはだめなんです」
 その点、アメリカで仕事をするときは、彼女は自分でスタッフのオーディションをしますから、本当にやる気と才能のある人たちばかりが揃う。ですから、出演女優がフェイ・ダナウェイのような大物女優であろうと、照明がハリウッドの歴史をつくったよう偉大な人物であろうと、石岡さんが部屋に入ると、全員が石岡さんの一挙手一投足、表情に真剣に気をつかう。「エイコはこのライトは気に入らないのではないか」「あのメイクは完璧か」「ヘアーはあのスタイルでいいのか」ということを全スタッフがプロとして考えて行動するわけです。
 ですから、石岡さんがいちいち指示しなくても、彼女の視線の行方までを注視していて、あっという間に仕事が進んで行くという。ところが日本だとそうはいかない。これが日本で仕事をしない理由だということでした。それで私は言いました。
「その方法でやっている限りは、自分ひとりの才能を超えられないんじゃないでしょうか」
 石岡さんは一種の天才だと思いますが、じつは本当に大きな仕事というのは、石岡瑛子の才能を超えたときにしか出てきません。ですから、だめな人間と仕事をする。そのだめな人間、ジャンクが入ってなければ、本当に大きな仕事はできません。これは直感です。
 これは組織論と結びついてきますが、人材を集めて精鋭部隊をつくり、物事を進めていくときに、変な奴とかやる気のない奴とか、そうした連中が仲間に加わっているほうが人間的な組織になるのです。そういう人間的な状況の中で、やる気のない奴が偶然に仕事の手を抜いたため、思わぬミスが起きたが、それが結果的にすごくよいものに変化したり、思いもかけない成功につながることだってあるのです。

P.146

 ガンにかかったあるおばあさんは、とても気丈なかただった。そして病院に行くことを拒否して、死ぬ直前まで家の中で立ち働いていたそうです。そして死ぬ三日ほど前に家族が集まってきて、三日後に「それじゃあね」と言って亡くなった。それまで、そのかたの身の処し方を家族や周りの人が見ていたから、息絶えたときにみんなが思わず拍手を送ったという。
 立派な死に方だった、素敵だねえと拍手で送られる死に方というのは見事です。
 もうひとつ、私の友人の祖母の臨終のときの話ですが、息が絶えたときに、死に水を取ろうとした。周りの人が「脱脂綿どこにあるのかな」と言ったら、「タンスの上から三番目」という声がした。その声の主は、死んだはずの祖母だったそうです。
 みんなが「えっ?」と驚いたそうですが、いろいろな死に方があるものです。
 周りの涙を誘う死に方だけでなく、笑いを誘うような死に方もあっていいんじゃないかと思います。
 よく死んだ、と言われるのも、往生のひとつの形です。
 ただ、どうもいまの時代はよくないと感じます。というのは、私が家にいて話をすると、すぐに「よかったなあ、おたがい歳をとって先が長くなくて」という会話になる。「自分がいままだ二十歳くらいで、この先六十年も生きていかなきゃいけないんなら、気が狂うかもしれないね」と語り合うのですが、これは正直な実感です。
 歳をとって、先が長くなくてよかったなあ、としみじみ幸せに思うような世の中は、やっぱりどこか変な世の中なのではないかと思われてなりません。

P.220

 数年前、多田富雄さんの『免疫の意味論』が大佛次郎賞を受賞しましたが、このことは、科学がストーリーの分野へ大胆に踏みこんできたことを示しています。異色の物語作家だった大佛次郎氏を記念する賞が、免疫論の新しい考え方を示した書物に与えられたことは極めて印象的なことです。
 かつての免疫論は、自己と非自己を識別し、非自己を排除して自己を確立する働きとして、免疫現象をとらえていました。これに対して、新しい免疫論は、非自己の延長線上に自己があると考え、自己と非自己の共生の可能性を探ろうとするものなのです。
 ですから、ナショナリズムPKOといった、一見生物学とはまったく関係のない問題も、この考え方からアプローチが可能になるように思われます。
 親鸞の『歎異抄』は、彼の思想の書として読まれることが多いのですが、この本は弟子の唯円が書いた親鸞の言行録なのです。唯円という個性を通しての一篇のストーリーと言ってよいでしょう。
 歎は「嘆ずる」、異は<異安心>、つまり正しい他力思想に対して異端の誤った理解が横行しているのを嘆いて、それを正すために言ったことを集めた、というふうに普通は受け取られています。
 しかし、新しい免疫論の光にすかしてみると、念仏の正統を確立するためには異端を排除するのではなく、異端が正統に対して光と闇のように存在し、正統は異端の艶やかな黒い光に照らされて立ち顕れてくる、というふうになるのです。
 ですから、親鸞は「間違った、念仏の教えでない考えが横行しているけれども、あのものたちの存在によって自分たちの考えが正しいことが証明される。何という不思議な矛盾であろうか」と、溜息をついたのです。

P.240

 ペシミストだと自己評価していたが、いつごろからだろうか、ひょっとしたらオプティミストなんじゃないだろうかと思うようになった。そんな個人的経緯はさておき。
 先頃、五木寛之氏の講演を拝聴する機会があり、家中から著作を発掘する縁を得て着手に至る。講演においては腑に落ちた氏の論も、文章であるためか反論も覚える。氏の語り口調を脳裏に思い浮かべながら解釈を試みるが、容易には成し難い。
 ともあれ、かりそめとはいえ、仏弟子の一人として、響くものがあることは確かだ。