でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『機動戦士ガンダムUC 4~10』

 早口に言うと、マウリはせかせかと応接室から出ていった。いまさらなにが間に合うものでもないが、やれるだけのことはやった、と言い訳ができる程度にはマウリは動くだろう。職務上の勘は働かなくとも、自分の立場を守るためには特別な反射神経を発揮するのがこの手合いだ。

――第四巻 『ラプラスの亡霊』 P.67

『やさしい方でした。やさしさを活かすためには、強さと厳しさが必要であることを知っておられた。その厳しさが、時に冷酷な能力主義者と見られることもあったのでしょうが、それこそやさしさの意味を取り違えた者の見方です。現代の人は、無責任なやさしさで現実をごまかすのに慣れていますからね』

――第八巻 『宇宙と惑星と』 P.80

「風見鶏・・・・・・。大衆という名の風に吹かれて右左、か」

――第八巻 『宇宙と惑星と』 P.110

「わかるよ。なにもかもうっちゃって腐れるような奴に、この仕事は務まらん。犬は犬でも、上等な犬だからな。おれたちは」

――第十巻 『虹の彼方に(下)』 P.66

「フクイ・・・今頃ミシマ気取りでしょうね」

――一読者のコトバ

小説版ターンエーガンダム『月に繭 地には果実』で獲得した俺俺ガンダムという印象は変わりなく、オマージュがあざとすぎてどうにも好意的に受け容れられなかった本作品だが、五巻でやっと、スイッチが入った。長すぎる暖気はエンジンのポンコツ具合が進行したということか、我がことながらイヤになる。

全巻を通して、これまで顧みられなかったMSの総括の風合いも見られれば、本作に込めた気合い、あるいは、著者の地力が垣間見えようというものだ。六巻に登場する、ビグザムエルメスサイコガンダムをたしたようなグラブロは、その象徴といえよう。

大上段に構えつつも、自らに課したガンダムの作法を遵守する姿勢はうかがえる。しかし、かつては狂喜し、小躍りし、ニヤリとさせられたであろうオマージュにも冷笑をしか禁じ得ず、間違いなくファンサービスとして配されたソレコレにも眉をひそめさせられるばかりだった。オマージュとはもっとさりげないものではないかと思うのである。

大上段の構えに勢いはあっても、心情は盤石ではない。本作品に感じてしまうそのような著者の気配は、ガンダムをhackして自論を語ることへの怯懦から発露したものか。福井作品にはいずれも、これに類する宿命的な構造の脆さがあると感じている。それは自信のなさから発するものであろうか。立てと叫び、嘲笑で応じられるのではないかとの怯えから発するものであろうか。
ともあれ、その脆さが物語に歪みを生じさせることになるが、これに対するに、水が低きに流れるように、歪みを一身に引き受けさせられる変態を用立てることで解決が図られる。歪めば歪むほど変態はとどまるところなく変態となってゆかざるを得ず、それを贄としてカタストロフィをなんとか乗り切らせる。『終戦のローレライ』『月に繭 地には果実』『Twelve Y.O.』『亡国のイージス』には、そんな印象を抱かせられた。

さておき。
Zから発色してZZ、CCA、Vとファンタジーの色調を強めていったガンダムだから、いまさらいちいち突っ込むようなことはしない。
宇宙世紀のターンエーをやりたかった。シンクロ率400%を達成し、イデを発動させたそれはだが、ひどく矮小であると感じることを禁じ得ない。
シーブック・アノーロラン・セアックのようなよい男は、なかなか生みだせるものではない。
そんなカンジ。