読物 『黒の過程』
十代の頃、カバラ魔術の本を読んだ。『ベルセルク』で汁気とかファル姉がやってることがそれで、同作品中では、魔術によってなにがなしとげられたのか術者は理解し周囲もなんだかわからんがなんか起こったことを観測しているが、現実というかカバラの本によると魔術の結果何かが起こったかどうかは観測者の主観によるっぽい。
ファンタジーを知覚する術のない凡俗の身には、そのとき知った呼吸法が、のちに習い知ったヨガの呼吸法と相通じるっぽいと思うだけの成果しか得られないものだった。
錬金術も同様である。
非金属を貴金属に変換するのが錬金術、そのようにまず覚え、なにかしらの知識を経るうちに、それは精神を高次に高めることを目的としたもので、金属変換は主目的ではなくカモフラージュであるとか、そんな達人の詭弁的な論が存在することを覚えた。
「黒の過程」とは錬金術のある段階を指す言葉だという。もっとも困難な過程であるそうな。
思わせぶりに主人公の男とその幼馴染の男が旅立つシーンからはじまり、主人公不在のまま唐突に主人公の家族の話になって一族がどこそこでなにやって家族の誰それが死に、冒頭の二人が数十年ぶりに再開し別れ、幼馴染が野たれ死に、そしてまた描写されぬままに時が過ぎ、晩年の主人公の物語となる。物語というよりは、物語の舞台を描こうとしているかのようだ。
エンディングはストルガッキー兄弟の『ストーカー』的な印象で、なんだかよくわからなかったけどご苦労さんというか。『石の笛』なんかも彷彿とさせられるが、物語が面白いかそうでないかは、ある程度著者が向いている方向に依るのだろうと思ったり思わなかったり。自分の方を向いているのか、読み手の方を向いているのか。