宝島
子供の頃、フィクション――主にアニメにおいて、子供が大人相手にいきって局面をいろいろいじくる展開がとても苦手だった。
失敗すればほれみたことかと思ったし、なんともなしに成功させればうそくせーと思ったし、ピンチを切り抜けて成功させてもやっぱりうそくせーと思った。
どういう発想から子供を活躍させる創作が生まれたのかは不明だが、少なくとも1833年頃にはすでに在ったことになる。そう、主人公、ジム・ホーキンズは少年であり、実に大きな活躍を見せる。
本作品に対しては上述のようなめんどくさいアレルギーが発症しなかったのは、その武勇に説得力を感じたからであろう。
初読である。出崎版アニメ作品と併行して読んでみる気になった。
出崎版アニメ作品も通して見ておらず、ふと思い立ってこのGW中の完走を試みたが挫折した。出崎統の過剰演出は嫌いではないと思っていたが、心の底では実はそうではないかと思っていたように、合わないらしいことが判明してしまったカンジだ。
それでも何話か見て、「死人の箱には15人」の歌詞など気になったところを調べているうちにアニメ版宝島は大胆な翻案がなされており、まさしく出崎版ともいえる内容になっていることを知った。また、青空文庫版が存在することも知った。
それで並走を思いついたわけだ。
なるほど、翻案を成した理解できるような気がする。
ジム・ホーキンズは上述の通り、冒険小説ここにありといわんばかりの主人公で、宝探しそのものはすぐに終わってしまうという物語の展開の余白で活躍するわけだが、アニメの主人公のそれとしては弱いように思える。
一方、ジョン・シルバーはコブラのアーキタイプといってもいいタフガイだ。主人公ないし主人公の補佐役としてはもうしぶんないということなのだろう。
機動警察パトレイバー 2 the Movie
このGW、劇場版1~2作目を見た。
2作目は公開当時以来、二度目の視聴となる。初回でとても嫌いになり、二度と見るもんかと思ったものだが、なぜ嫌ったのかを忘れると理由が気になるものらしい。
見て、しばらく経った今、嫌った理由は、南雲しのぶの行為が背信とみえたからだと思い出した。
ハイティーンでOVAに触れ、劇場版1作目でものすごくやられた身上としては、特車二課はエバーランドだった。約束の地だった。作品世界においてはそれが永遠であると見ていた。
それゆえ、ぽっと出の昔の男に心を残したこと、それが背信に思えたわけだ。約束の地が破壊されたと感じたわけだ。せめて柘植という人物がぽっと出でなければ――
だがそれは、特車二課の人員構成に疑念を抱かなかったがゆえのことであると、今なら思う。
南雲しのぶという、一見して有能である人物が、梁山泊もかくやと思われる特車二課に島流しにあっている理由は、劇場版2作目まで明かされていなかったように思う。
原案において理由があったかどうか不明である。原案に近いと思われるコミック版では熊耳武雄がその業を背負ったことしか知らない。
それは隙であったといえよう。そして、押井守とは隙をつく男だ。
今ならば、南雲しのぶの島流し人事に理由をつけた物語と認識することができる。嫌う理由もなくなった。
むしろ、永遠と思えた劇場版1作目、かつて何度も繰り返し見た作品が古びて見えてしまったことが衝撃だった。
マイマイ新子と千年の魔法
どうやって見たものかと考えていたが、U-NEXTでようやっと機会を得た。
終盤で惜しい物語になってしまったが、とてもよい作品だった。
1999年くらいから映画は楽しみよりも不安がまさる娯楽になってしまい、映画館はもとよりレンタルからも遠ざかってしまった。むかしふうにいうなら臭い芝居、近頃の表現では感動ポルノ。一種の演出過剰に食傷したことが大きな理由である。
長いシリーズ物でも安心できない。
ぽっと出の新しい登場人物に物語を蹂躙されるさまをみてしまえば、資本主義というものを呪うしかなくなる。映画というものへの信頼を失ってしまえば、サブスクですらよほど気が乗らないと映画を見る気にはなれない。暇つぶしならば他にも手段はある。
こんな作品に出会えれば、映画も悪くないという気になれる。
なんということはない物語を、こんなにも飽きさせず魅せてくれるのは、とてもすごいことだと心底思う。
伝説巨神イデオン
イデもエゴ。わがままな力なのでしょう。愛などというものではなくて…
――27話より
それはあたかもソロシップが流星を生み出しているかのようであった。そしてそれは事実ソロシップ…
――34話より
80年代のアニメはLDボックスが世に出た頃に幾つかシリーズで見直しているが、それゆえ当時も見ていなかったものにはなかなか手が出なかった。
長い。飽きる。ファーストガンダムですらそう思ったのに、名高いとはいえ全39話の未視聴シリーズはあまりに敷居が高すぎた。
そして40年が過ぎてしまった。
ここ数年、次第に意欲が高まってきてようやく見る気になった。劇場版だけで良いかという怠け心を打ち砕いてくれたのはとあるブログで、TV版をまず見て、次に劇場版を見るべきであるという。横着しないでよかった。同感である。
火の鳥であろうか。この物語の着想の源は。まあよい。なんであれ、この物語が与えた影響は甚大なのであろうと思う。観賞中、意図せずしてアレやコレやの名が思いうかんできた。劇場版四部作はもとより、80年代中盤あたり、メジャーとはいえない雑誌で連載されてた漫画までも。
ZやZZの気持ち悪い部分を人々がなぜ平然と受け入れたのかという疑問も氷解した。
次に課題とするならば、アレやコレやをイデオンを加味して再評価したらどうなるか、というところか。
KADOKAWAのメディアミックス全史 サブカルチャーの創造と発展
角川書店は憎悪の対象である。敵である。
なぜかというと敵対的な行動を一方的に行ってきて被害を与えられ、和解に至るいかなる対話も行われていないからだ。
発端は、いわゆるお家騒動というやつである。被害は以下に列挙する通り。二番目のものは対象が複数あり、今に至るも更新され続けている。
- 看板だけで中身の違う雑誌を買わされた
- 好きな作品の展開を台無しにされた
本書は非売品だという。そうであるからには社内あるいは関係各位向けというものであろう。そんなものに一般読者へのメッセージなど含まれているわけもないと思いつつ、和解の望みを持って読んでみたわけだが、当然、そんなものはない。
ニュートラルを心がけて書いているのではあろう。内部の人間にとっては危機であり、戦いである。武勇を誇る気持ちが抑えられていないように読めた。
当時の読者に対する考えを示すものやメッセージなどはなかった。
売れ行きの悪いものを切り捨てる。角川のみならず、多くの企業の社是ではあろう。
だが、翻訳小説でそれをやられてしまうと悪循環に陥る。シリーズを途中で切るということを繰り返しやられると、出版社に対する不信から買い控えることになる。一般に広く受け入れられるであろう作品以外は常に打ち切りの可能性を疑わなくてはならなくなる。ハリポタでしめた味(ハードカバーでなおかつ巻数を稼ぐ売り方)を楽しむのは見逃してやってもいいから、せめてシリーズはすべて発刊する誠意を見せてほしい。
さもなくば、角川は二度と翻訳小説を刊行しないでほしい。