でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

総括『電脳コイル』

『地球外少年少女』公開の報を聞いて、なぜかくも『電脳コイル』を嫌うのか考えてみる気になった。嫌ったままでは『地球外少年少女』を見るも見ないも決められない。そう思ったのかもしれない。別に気にしないで見たけりゃ見ればいいんだが。
昨今、いろいろと読んで、吉田健一氏の言葉に触れたことが再視聴を決めた理由かもしれない。気になるクリエイターが関わったのなら、わだかまりなくいい気分で見たいじゃないか。

オンエア以来、二度目の視聴となる。
嫌った理由は覚えていなかったが、今回の視聴ではっきりした。Gロボ的記憶喪失、その解消による種明かしが最大の理由であろうと。忘れてた、思い出した、以上謎解きです、ってそりゃねえだろと。
エヴァ的理由説明がその次であろうか。「ガフの部屋にはなにもなかった」ふーん? 意味ありげでなにもない。一定以上の興味を持っていないと意味を追求する気にもならない。
状況が推理小説的に解決、解説されている、ということにつきるのかもしれない。最も嫌う物語のパターンである。
そしてまた、まったく感情移入できない登場人物たちドラマであったことが、これらに劣らぬ理由であるかもしれない。イサコのセカイ系ということになるのだろうか。セカイ系もまた好まぬ系である。
つまり、嫌いなもので構成されていたということになる。

当時は「俺向きではない誰か他の人向け」という言葉も編み出しておらず、not for me という言葉も知らなかった。
今なら言える。というか、言うしかない。not for me であった、と。

読書記録

読書記録を思い立ったのは25年くらい前のことか、当初はアクセスに記録していたが、書籍というものがタイトルで一意にならないということに気付いて廃止した。体裁の違い(ハードカバー、文庫など)や再販でISBNも異なることに、長らく気づかなかった。古い書籍にはISBNすらないことにも。

次に、ブログに記録することにした。アマゾンのリンクを利用すれば一意に決定されると思ったからだ。再読や再入手にむけてという意味合いが濃かったため、これは一挙数得の良い方法に思えた。
だが、アマゾンは頻繁にリンク切れを起こす。この方法は昨今まで継続していたが、常に代替を探し続けていた。

 

というわけで、サービスが続いている間という前提ではあるが、有用と思えたのでブクログを使ってみることにした。

charliexpgの本棚 (ちゃり) - ブクログ

使い勝手は、読書感想程度になら有用かもしれないが、本気で紹介するとすれば入力機能がチープすぎるというところ。どういう意向のサービスなのかイマイチ不明である。

チャリオンの影

 ウメガトはふたたび杯を返して壺をとりあげた。

「ときとして、人が心をひらき、みずからを媒体として、神々を世界に迎えいれることがあります」そして杯を満たし、「聖者とは高潔な魂ではなく、うつろなる人間です。天与の意志を進んで神に与え、放棄することによって、逆に行動を可能ならしめる者なのです」

上巻P.350

「失礼ながら、ドンド殿はわたしの手により、わたしのおこなった死の魔術によって生命を落としている。それは死に値する罪のはずです」

「ああ、なるほど。無知なる大衆が死の魔術に関して抱いている知識は誤りばかりだ。そもそもその名称からして間違っている。神学的には非常に興味深い問題なのだがね。よろしいか。死の魔術を試みることは、殺人を謀議し意図する犯罪となる。だが成功した場合、それは”死の魔術”ではなく”正義の奇跡”となり、犯罪ではなくなるのだ。犠牲者――被術者と施術者の双方ということだが――を連れ去るのは神の御手であり、役人を遣わして庶子神を逮捕させることは国王にもできぬ」

下巻P.108

久々に骨太のファンタジーを読みたくなり、物色していて見出した。
近頃は小説でも漫画でも映画でもアニメでも、冒頭で not for me と感じたら撤退することができるようになった。いや、映画館まで足を運んだ場合はその限りではない。修行が足りない。
本作は、とてつもなく地味な語りだしである。なのに気づけば第一章をするっと読んでしまっていた。つまり not for me は派手さやケレン味ではだけではなく、なにか違うものに依拠していると思える。小説においてそのひとつは文体ではないかと感じている。

世界設定はファンタジーRPGでいうなら、TSR的ではなく『混沌の渦』的な)だがストーリーはミステリーのようである。ミステリーは好まぬジャンルであり、それは謎解きにカタルシスよりも台無し感を感じることが多いためで、本作品も三箇所ばかりそんなくだりがある。それをおいても面白いと思わせたのは冒頭の謝辞にある「かつて教育機関にかけた中でももっとも有益な四百ドルと十週間だった」とおそらく無縁ではない。その講義は神学だったのか歴史だったのか、引用した「神の威光の具現」からすると神学だったのではないかと思わせるが、さて。

いやいやながらルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝

――彼(ジュール・クラルティ)は、シャーロック・ホームズにくらべてどれだけルパンが優れているかを主張した。なにしろモーリス・ルブランはある離れ業に成功している。前もってその犯人を知っているのに、犯罪によってかけられた謎に私たちは夢中になってしまうのだから。

P.193 

――フランスでは、一九三二年一二月、『アルセーヌ・ルパン』のタイトルで、マドレーヌ映画館で封切られた。派手な広告文(人は言う、「奴は心をも盗む」と)と、まさに「モナリザ」を盗もうとしている謎めいた手が描かれたポスターを使って、大々的に宣伝された。

P.370

――『最後の恋』のプロローグ「アルセーヌ・ルパンの先祖」には、ルパンの祖父、ナポレオンの指揮下、モンミライユの闘いで勝利したルパン将軍が登場する!

P.392

――改めてルブランは冒険物語を賞賛している。いやいやながら書くように仕向けられた、あの冒険物語を。「恋愛小説を想像するように、探偵物語を作り出すことはできない。恋愛感情には、論理や計算や正確な事件解明は必要ない。(・・・)二〇年前の恋愛映画のなかで、今日嘲笑や酷評を逃れるものがあるだろうか?」。

P.395

小学生の頃にシリーズを一通り読破したと思っていたが、『カリオストロ伯爵夫人』は読んでいない気がする。一通り再読するか。

 

FF14総括

たぶんもう遊ばないので。

遊び続けたゲームの辞め時は、興味が他に移ったとき、過疎ったとき、飽きたときなどが挙げられるが、MMOなど更新が続くゲームだと異なる要素も理由になる。

我慢の限界を超えたとき、だ。

通常これはゲームプレイ初期に発生するが、更新を続けているゲームは後出しジャンケン状態なので常にこれを抱かせる可能性がありかつ気づきにくいと言っていい。
FF14については少なくとも二度はユーザをためすようなことをやっており、それは苦笑いで見逃してやったが、今回は見逃せなかった。0/10かそれ以下が何度となく続くのに10/10かそれ以上は一度も発生しない「50%の成功率」(公正を期すために記しておくならば、8/8程度なら一度か二度くらいは発生した)は明らかに詐欺であり不公正である。この手の話題をふると大同小異、プレイヤーは同意する。確率の揺らぎや個人の問題ではないと思える。

WoWも我慢の限界を超えてやめた。ディレイ要素に嫌気が差した。FF14のそれとは異なるが根っこにあるものは同じ。1980年代からゲームデザインとしてはあたりまえになっていることでいまさらかもしれないが、ゲームデザイナーは、隙あらばプレイヤーにディレイを強いてくるる。UIの使いにくさであったり、マップの小さなへこみであったり、50%を謳いながら実質25%にも感じられない成功率を示すトレードなどでだ。
イシュガルド復興でプテラノドンをゲットしたプレイヤーは少なからず存在するだろうが、彼らと違って、当方はコケにされることを好まない。クラフトは300万ちょい程度やったが、もうたくさんだ。

6.0は楽しみにしていたけれど、たぶんもう遊ばない。

『古代の女性官僚: 女官の出世・結婚・引退』『毒が変えた天平時代:藤原氏とかぐや姫の謎』

『古代の女性官僚: 女官の出世・結婚・引退』

いわゆる「女官」は古代日本では官僚のありようを示していたが、次第に高貴な女性の側仕え、あるいは後宮仕えという存在になっていった。
天平時代あたりまでは、日本でも女性官僚はそれなりに存在したが、中央集権化が進んで中央と地方の結びつきがあまり重視されなくなり、次第に姿を変えていったという論。

『毒が変えた天平時代:藤原氏かぐや姫の謎』

正倉院には毒物も保存されていたことから、天平時代は毒物を用いたあれやこれやがあったのではないかという推論にいたり、かぐや姫の著者は誰かという筆者の妄想へと飛躍する。
証拠を丁寧に集めたうえでの推論ではなく、結論ありきの無理筋と受け止められる。当方はミステリ嫌い。こういう筋を通す物語が多いからだ。

 

2つの書を同時期に読んだのは偶然だが、奇しくも表裏ないしは補完するピースという位置づけになった。天平時代についてはガッコにおける歴史の授業程度の知識しかないので、読んでただ咀嚼するしかない。
前者については少なくともそんなふうだったが、後者を読んで、前者もうかつに飲み込んではいけないものだという感想に変わった。後者は上述の通りの内容なので、一説として解するのみ。

目に見えぬ侵略

他者を非難する文章というものは、読んでいて辛いものだ。それが同意できる内容であったとしても。本書についても、中国だからあるだろうなと思いつつも、やはり読みすすめることは難しかった。

幼少の頃、かつての中国圏文化は日本の長兄的位置づけであると自然に学び、なんとなく敬意を抱いていたように思う。
いつの頃からか、実に残念なことになってしまい、その念は失せた。

革命を志す人々は暴力を肯定する。歴史がそうであるからとして踏襲することを恥じない。踏みにじられたから相応に返すという考え方はわからなくもないが、無条件に同意することは難しい。実現した社会主義国家のほとんどすべてが独裁を結実したことを考えれば、なおさらに。

本書を契機にオーストリアは気付きを得たという。
資本主義の弱点をたくみにつく戦略は、指導者層とそれを取り巻く環境が変わらない限り、中国のような国家構造を持つ勢力にはうってつけのものだろう。資本主義国家にとっては他人事ではない。経済学()がうたうのは欺瞞でしかない。