でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

風の帰る場所

 押井守

――『攻殻機動隊』も観ていらっしゃらないんですか?

「観てないです」

――押井守さんから、宮崎さんについては、いろいろ面白いコメントをいただいているんですけど、宮崎さんからはどうなんですか?

「いや、なにを犬に狂ってるんだ、バカってね(笑)」

――(笑)よく知ってますね。

「知ってますよ。人の犬に悪口言ってきてね、それで、喧嘩したんですから(笑)。汁かけ飯がなぜ悪いってね。僕は汁かけ飯で犬飼ってたんですよ。それで十七年も生きましたからね。だけど、押井守は、なんか犬のために伊豆に引っ越ししたでしょう。家の周りに犬の通路作ったりしてね、そのバカ犬をさ、雑菌に対する抵抗力がないから外に出さないとかね。それを聞いたとき、なにやってんだこいつ、って思ったんですよ。大体、ブリーダーってみんな胡散臭い顔してるでしょ(笑)。押井さんに言ったんですけどね、『そんなに犬が好きなら、愛犬物語作れ』って。くだらないもの作ってないでね。人間の脳みそが、電脳がどうのこうのなんて、そんなんじゃなくてね」

――観てるじゃないですか(笑)。

「いや、観てないんですけど。わかるんですよ。士郎正宗の『攻殻機動隊』は読みましたもん。これ全部入らないから、どうせ適当に全部意味ありげに語るんだろうって。意味ありげに語らせたら、あんなに上手な男いないですからね(笑)。『機動警察パトレイバー2 the Movie』のときなんか、まいりましたもん。なんか意味ありげだなあと思っていたら、『しょせん意味などないんだ』ってね(笑)。おかしいなあと思うと、先回りして言うんですよね。実に語り口は巧妙なんですけど、要するに押井さんが言ってるのは、東京はもういいやってことなんだろう、だから、伊豆に行って犬飼うんだろうって。自分が短足だからって、短足の犬飼うなってね。そのバカ犬がさ、家の中にウンコとかおしっことかしてると聞くと嬉しくてね」

――しかし、押井守宮崎駿評と、宮崎駿押井守評ほど面白いものはないですね。

「いや、基本的に友人ですからね。だから、元気に仕事やってほしいんですけどね。でも、押井さんはね、本当はものすごく生活を大事にする人で、彼が作ってるような形而上学的なとこで生きる人間じゃないと思うんですよ。もう無理やり七〇年で止めちゃってね、ぐずぐず言っているけど、本当はものすごく健全で、潔癖な男なんですよね」

――鋭いですね。

「そんなこともうちゃんとわかりますよ。朝早く起きて、夜は寝るもんだってね。そのくせジブリスターリン主義だとか、いろんなこと言うんですね(笑)」

P.172

「実写は楽ですからね。ビールが美味しいでしょ、一日労働するから。そうするとそれで充実しちゃうんですよ、どうも実写の人を見てると、そういう感じがするんですよ」

――押井さんも一緒ですかね。

「うーん、押井さんよりもずっと庵野のほうが才能ありますよね。押井さんの実写はもう、あれ学園祭向きのフィルムから一歩も出ないから。あれ反復脅迫だと思うんですよ。完成品を作っちゃいけないっていうね。押井さんの実写によくスポンサーがつくなと思うだけで(笑)」

――僕も言いますけどね、「おまえ絶対やめたほうがいい」って。カミさんもそう言ってるって言ってます(笑)。

P.206

・・・例えば、あそこ(腐海)の砂っていうのは人間の日常生活の廃棄物が生んだセラミックスの破片でできてる砂なんだっていうようなことを言うと、高畑勲は喜ぶわけですよね。でもどこにも出てこないわけですよ。そんなこと映画の中で言ってる暇がないんです(笑)。そうすると僕はそういうこと落っことすんですよ、これは映画を損ねるからって。でも、高畑勲はそういうことを無理矢理にでも入れるんですよね。『おもひでぽろぽろ』でも、この風景は百姓が作ったんだとかね。なんでそんな共産党の宣伝カットみたいなのを入れるんだろうと僕は思うわけです(笑)。そういう、なんか啓蒙したいという意識は、実のところ僕はあんまりなくて、やっぱり絵草紙派の人間なんですよね。どうもやっぱり人に喜んでもらえないと存在理由がないと思い込んでいて、だから人が喜ばなくてもいいものを作るんだっていうふうにはなかなかなれない人間ですね。それが自分の中で、いつも葛藤としてあることはもう間違いないです」

P.237

 

コロナ由来で図書館が閉鎖され、次に読もうと思っていたものが手に入らず、積読のうちから何か読もうと思ったとき、『ミヤザキワールド』を読み終えたからだろう、本書を選んだ。

読書態勢で読むものではなかったのかもしれない。風呂で読むくらいがちょうどよかったのかもしれない。『ミヤザキワールド』でアレコレとその気になったり、緩和されたりしたからかもしれない。宮崎駿という人物をあまり知らないため、本書の序盤がきつかったにすぎないのかもしれない。

序盤を超えて、たぶん、上に引用したあたりからがぜん面白くなった。
押井氏は好きな作家だが、度し難い作家でもあると感じていて、それを肯定されたような気になれたからかもしれない。

近頃エヴァ序破Qを見たのだが、次回予告が嘘っぱちなのはさておき、Qにおけるシンジとカントクのシンクロ率400%具合はもう、作品として評価するべき内容ではなくなってしまったと思える。一方的に突きつけられる主張をああそうですかと聞き流し、ここの演出はすごいですね、話はアレだけど、とか思いながら口にする必要もない作品となってしまった。ファイナルは、気が向いたら見るかもしれない。
そしてまた、碇ゲンドウとは宮崎駿なのだなあと、本書を読んでそんな印象も抱かされた。庵野氏の師匠筋であろう人物ならば、エヴァという作品に自分宛ての私信が含まれていると感じられたのかもしれない。

夢の宇宙誌

 ところで、たまたま古新聞の切り抜きを集めたスクラップ・ブックをぱらぱら繰っていると、このわたしの直観をまさに裏書するような、ある科学的な仮説を立てた学者の見解を紹介した記事が偶然にも出てきて、わたしの目には、その古新聞の小さな囲み蘭に否応なく吸いつけられてしまったのだ。すなわち、そこに見出されたロイター通信の報道によれば、「米国イリノイ大学工学部のフェルスター教授は、このほど米国の科学雑誌”サイエンス”に寄稿した論文で、あと六十六年後の西暦二〇二六年に、人類最後の日がやってくるだろうと予言した」というのである。
 同博士は人口増加について数学的計算をした結果、かかる結論を出したもので、問題の西暦二〇二六年には、人口はほとんど無限にまで殖え、人間はみずからを殺戮せざるを得ない状況にまで追いつめられる。博士の説によると、人類は飢えや放射能や、病気や天災などでむやみに滅びるものではなく、むしろ逆に、人口が増えすぎて押し合いへし合いの結果として絶滅する、というのである。
 ――とすれば、この人類の怖ろしい未来風景は、わたしが先ほど述べた、レミングや羚羊などの狂気の運命をそっくりそのまま模倣したものにほかならず、より高次の超越的な目から見れば、六十六年後の人間の運命も、全く動物たちの盲目的な行動と相似の形態をあらわすものと言えはしないだろうか。いかにも小動物の集団的自殺のイメージには、人類絶滅のイメージがひな形として隠されていたのであった。

P.228

 昭和五十九年初版、同六十三年七版発行の河出文庫版を入手したのは、高校生の時だったか、大学生の時だったか。数十年ぶりに読んでみれば、なんとなく読んだ記憶しか蘇らない。当時の自分に響くものがあまりなかったのだろう。

断捨離にて見いだし、まるで覚えていないので処分する前に再読する気になった。
読み返してみても、知識の蒐集としては興味深くもあるが、やはり響いてくるものはない。引用した内容は、現在から六年後の未来を一九六〇年代に占ったもので、人口が単純増加をしていく未来予想図に微笑ましさを禁じ得ない。

かくしてモスクワの夜はつくられ ジャズはトルコにもたらされた

 革命を契機とする国の変革が、無視無欲の平和的なものになるはずがなかった。レーニンいわく、あらたに権力の座についたプロレタリアートの使命は「盗人から盗め」だった。農民と労働者はこの言葉を額面通りに受けとり、都市でも農村でも、裕福な家や地所、企業、教会は一斉に没収され略奪されはじめた。国が行う接収と武装集団の強奪は区別がつかなかった。

P.195

 連合軍はトルコに居座るつもりでやって来た。広大なオスマン帝国を切り分ける合意はすでについており、トルコ人にはアナトリア高原の中心部だけを残し、鉱物と石油が豊富な領土は、誰がどこに住んでいるかはお構いなしに地図に線を引いて分割する予定だった。その影響は今日のイラクアラビア半島にまでおよび、このときの決定の結果はいまも国際社会で受け入れられている。

P.211

――一九二〇年四月、トルコ大国民議会によってすでに大統領に選出されていたケマルは、サカリヤ川の戦いでの勝利によって陸軍元帥に昇進し「ガーズィ」の称号を与えられた。「ガーズィ」とは、オスマン帝国の時代にさかのぼる名誉の称号で「異教徒と戦う戦士」という意味である。

P.249

 だが、コンスタンティノープルに存在したありとあらゆる娯楽のなかで最も奇妙奇天烈だったのは、ロシア人が発明した「ゴキブリレース」だろう。一九二一年四月、市内に賭場が広がるのを防止するために、連合軍当局は、ロシアの難民がペラのいたるところではじめた賭けゲーム「ロト」を禁止した。そこで、何かほかに飯の種になるものはないかあれこれ試したあとで、チャレンジ精神旺盛な何人かが、どこにでもいる昆虫を使ってレースをするのはどうかと思いついた。許可を求められたイギリス警察のトップは「真のスポーツマン」だったので、一も二もなくこれを承認した。明るく照らされた広いホールの中央に巨大なテーブルが据えられ、低い壁で仕切られたコースが卓上を覆った。「カファロドローム」(「カファール」はゴキブリという意味のフランス語)のオープンを知らせるポスターが地区全体に貼りだされると、客が押し寄せてきた。熱を帯びた目をぎらぎら輝かせる男たちも頬を真っ赤にした女たちも、テーブルを囲む全員が、黒光りする巨大なゴキブリを見て立ちすくんだ。ゴキブリにはそれぞれ名前があった。「ミシェル」「メチター(夢)」「トロツキー」「プラシャーイ(さらば)」「リュリュ」。レースの開始を告げる鐘が鳴ると、煙草の箱の「厩舎」から放たれたゴキブリたちが、針金製の小さな二輪車を引っ張って猛然と駆けだした。まばゆい光に仰天してその場に凍りつき、不安そうに触角を震わせて、応援する観客をがっかりさせるものもいた。ゴールにたどり着いたゴキブリのご褒美は干からびたケーキのかけらだった。パリ・ミュチュエル方式による配当が一〇〇トルコポンド(今日の貨幣価値に換算すると数千ドル)に達することもあった。最初のカファロドロームが大当たりすると、ペラとガラタのいたるところにライバルの「レース場」が出現し、噂はスタンブールやスクタリにまで広がった。ゴキブリレースを考えた者のなかにはたちまち大金持ちになり、パリで人生をやり直そうと考える者も現れた。金があれば偽造パスポートが買えた。だから、持ち運べる資産があって、連合軍警察に顔が知られていなければ、船に乗って逃げ出すことができたのだ。

P.266

 

 

この頃、本を読むにつけ思うことは、トミノ監督は中東付近の事物から名称を取得することがあるらしいということだ。ナカツ氏はヨーロッパ大陸側の地名を好んでいるらしいということも。

本書については大きく二点、感想がある。

ひとつは、面白いということ。興味深いということ。先進的であるとされてきた欧米諸国の差別構造について、こんな対照が記されている。アメリカでは南部出身の黒人に、ヨーロッパでは黒人であることで差別は受けないが、イギリスではインド人が、大陸ではユダヤ人であることが差別の対象となる。トルコではイスラム教徒かそうでないかだけが重要だった。

もうひとつは、タイトル詐欺であるということ。本書のタイトルから想起されるのは、先駆的出来事、人物である。後半はまあ良しとして、前半はいいすぎ。
アメリカ南部出身の黒人、両親の努力によって極貧ではない幼少時代を送り、その後、白人に騙されて資産を失い一家は離散に近い状態となり、本書の主人公であるフレデリックアメリカ各地を転々とし、ヨーロッパに渡った。フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアを経てロシアへ。仕事は給仕、ロシアに至る頃はフロア責任者的立場を任される手腕を身に着けていた。
ロシアにはすでに「夜」があったが、フレデリックは身に着けた手腕で先人たちの間に割り込み、名うての店を作り上げ、第一人者となる。だが、「夜をつくった」印象ではない。東京にも夜はあったが、ジュリアナが登場して有名になった、そんな印象だ。
フレデリックの数奇な流転の人生を読者として楽しむことができるとしても、邦題が瑕疵を与えていることは否めない。

ミヤザキワールド

 それでも、監督が生まれた年の日本は、うまく時運に乗っているように見えた。伝統的な制度や習慣を切り捨て、学校制度からステーキディナーに至るまで欧米のものと入れ替えることで、日本は近代化に成功した初めての非西欧国家となったのである。一九三〇年代後半までには、日本は世界中から尊敬と恐怖の念さえ抱かれている帝国を築き上げていた。こうしてついに、この国は、歴史学者ウィリアム・ロジャー・ルイスの言う「帝国を支配する白人専用のクラブ」への仲間入りを果たしたように思えた。そして、一九四一年一二月には、ハワイの真珠湾アメリカに対して劇的な軍事的勝利を収める。その際に、壊滅的な攻撃によってアメリカを震撼させた爆撃機の護衛を務めたのが、いわゆる「零戦零式艦上戦闘機)」として知られる驚異的な性能の戦闘機だった。

P.49

 アメリカの映画館で初めて『もののけ姫』を観た時、私はある友人と一緒だった。彼は宮崎の映画を観たことがなく、日本の文化やアニメにも接した経験がなかったが、大冒険活劇という触れ込みで、とくにアメリカではディズニー配給作品だったことも手伝って大いに興味をそそられていたようだった。ところが、映画を観ている最中に、友人は私をしきりに肘でつつき始めた。「誰がヒーローなの?」と彼は苛立った声で囁いた。「誰がヒーローで誰が悪役なのか、さっぱりわからないよ!」と言うので、私もこう囁き返さずにはいられなかった。「そこが肝心な点なのよ!」

P.283

 

 最初の引用は、『アメリカの鏡・日本』を思い出させる。
二つ目は、アニメ版トランスフォーマーについてのある説を。言わずもがなの場面で「さあ、戦いだ!」というナレーションが入るのは、アメリカ人はバカだから言わないとわからないという説だ。

宮崎駿を初めて意識したのはカリ城か漫画版ナウシカか。『未来少年コナン』はオンエアで見ていて好きな作品だったが、意識したのち、関係を知ったように思う。漫画版ナウシカは小学校か中学校時代の友人の影響で読み始めたように思う。

劇場版ナウシカにひどく失望し、それゆえか以後『もののけ姫』までジブリのアニメは映画館で見ることはなくなった。『もののけ姫』は別の理由で失望した。話は良いが、絵が好みではなくなったことである。好みとは主に顔の輪郭で、似たような症例は安彦良和たがみよしひさに見られる。症例――妙にしもぶくれになった氏の絵は、どうにも受け入れがたく、以後、また映画館で見ることはなくなった。

それでも、宮崎駿について時折思い出したように興味は覚える。覚えては失望する。近頃だと『風の帰る場所』がそれにあたり、一年以上も読み終えられずにいる。
失望しても、知りたいという欲求はあり、そこで本書を知った。

本書は、宮崎駿についててっとりばやく知るためには良い読み物であると思う。前述の理由から多くの作品について強い思い入れはなく、深い知識も持ち合わせていないため、本書の著者の主張に強い反発も大きな共感もなく概ねフラットな気持ちで読めたことがその理由と言えよう。唯一平常心を失ったのは、漫画版ナウシカについて割かれた章である。

著者は劇場版ナウシカを一つの完結した物語としてとらえているようだ。個人的には、当時連載済みの物語からキリの良いところで区切った未完成品、そのために話の筋を変えたまがいものという認識である。劇場版ナウシカは評価にすら値しないというスタンスである。

また、個人的には非常に優れた作品と感じている漫画版ナウシカについて、連載期間に生じた著者の心情の変化が作品に影響を及ぼしたことを述べている。ハッピーエンドといえなくもない劇場版と、ハッピーエンドとはあまりいえない漫画版を比較して、後者がそうであるのは著者の心情の変化によるとしている。
作家にはそういうことがあることは理解している。巨神兵だって最初はメカメカしてたし、連載するうちに構想が変化することも理解している。だが、まがいもので評価に値しない作品と比較されながらそのように論じられると、なんか、もやる。

上記のような個人的理由を例にして、宮崎作品に一つでも好きなものがあるなら、このような評伝は読むべきではないと警告する。どうしても他者の評価を望むのでなければ、読むべきではない。

そうでないならば、本書はとてもおすすめだ。なにかしら、もう一度見たくなるに違いない。個人的には、カリ城と『もののけ姫』、千と千尋を見返したくなった。

図解雑学ハプスブルク家

ハプスブルク家について俯瞰したいと思い立ち、適当と思えたので読んでみた。
ほとんど何も知らないので内容の確かさを云々することはできないが、目的を達成することはできたと思う。
本書の難をあげると、中盤あたりからおそらくは洒脱を狙った表現が散見するようになるが、筆が滑っているようにしか感じられなかったことだ。

ペインティッド・バード

ブンガクというものが嫌いになったのは、大学時代の教養科目であった英文学的な講座を選択した後のことだと思う。
小学校、中学校では国語は得意で、「作者の気持ちを云々」「登場人物の云々」というようなテスト問題にも正解を得られていたことはさておき、同講座で得られた学問的態度は、文学への解釈は権威が認めるマストな解釈があり、そこから逸脱することは異端であるというようなもので、文章を好きなように読むことができないブンガクというものに強い違和感と抵抗感を覚えたからだと思う。

文章そのものの美しさを愛でることは良い。隠喩を讃えることもよい。それに気づく人もいれば気づかない人もあろう。熱狂的な支持者がいるということで、萌えの先駆者といえる。問題は解釈に権威が生じたことで、決して文筆家とはいえない立場の者らがそれをかさに着るようになったことではないかと思う。

そして、ブンガクとラベリングされたものが作品として面白いわけでは決してないということが個人的には最も重要である。

本書は、物心つく前くらいの男子が主人公である。物語の終局で十二歳と明示されているが、開始時点で何歳であるのかは明示されていない。序盤は子供のように描写されており、そのように読める。だが、中盤に差し掛かる前から著者の忍耐が尽きたのか、初心を忘れたのか、子供の目線を想像することにつかれたのか、著者のアバターになりさがる。
物語作品は作者の創造物であるからして、全てを自由にする権利はある。だが、物語の中に神が登場して全てを見通す視線で物を語る作品が面白いことは稀である。

本書の最後に書かれている「この作品が作り出したムーブメント」はまあ、面白い。そのようなムーブメントがあったからこそ、ブンガク作品として分類されたのであろう。

スクエア・アンド・タワー

危険な野心は、政府の堅固さと効率を求める熱意の近寄り難い外見の下よりも、人民の権利を求める熱意のもっともらしい仮面の陰に隠れていることのほうが多いものだ。後者は前者よりも、専制政治の導入への、はるかに確実な道であると判明していること、そして、共和国の自由を覆した人々のうち、卑屈に人民のご機嫌を取って自らの経歴を歩みはじめた人がじつに多いことを、歴史は繰り返し教えてくれる。彼らは扇動政治家として出発し、ついには専制的支配者となるのだ。

 彼は1795年に、このテーマに戻っている。「国々の歴史をひもとくだけで見て取れるとおり、どの時代にもどの国も、不埒な野心に駆り立てられて、自分の栄達と重要性の増進に資するだろうと考えることなら何ひとつためらわない人間の存在に苦しめられる……共和国の中で、どこに置かれたものであれ偶像(権力)を依然として崇拝」し、人民の「弱点や悪徳、短所、偏見を利用し、こびへつらう扇動政治家、あるいは無法な扇動政治家の存在に」。

上巻 P.209

 ジョン・バカンの小説『三十九階段』(小西宏訳、創元推理文庫、1989年、他)では、「黒い石」という邪悪な組織が、「動員令下のイギリス本国防衛艦隊の配置」についてのイギリスの計画を探り出そうと画策する。(メモ:続編『緑のマント』)

上巻 P.270

 キッシンジャーは1950年代と60年代を通して、各大統領が「官僚に既成事実を突きつけられ、それを承認することも変更することも可能であるものの、そうした既成事実からは代案についての真剣な考察が排除されている」傾向を指弾した。「国内構造と外交政策」と題した1966年の論説では、政府官僚が「問題の関連諸要素を月並みな作業基準に落とし込もうと周到な努力をしている」と述べた。そのような行為は、「[官僚が]定石と定義しているやり方では課題の最も肝要な範囲に対処できない場合や、所定の行動様式が当該問題に不適切であると判明した」場合、厄介な問題となる。それに加えて、部門間の「官僚組織内の競争」が決定に至る唯一の手段となったり、官僚機構のさまざまな要素によって「一連の相互不可侵協定」が形成されて、「意思決定者が慈悲深い立憲君主に落ちぶれた」りする傾向もあった。外交政策にまつわる大統領演説に関して多くの人々が理解していないのは、そうした演説がたいてい「ワシントンにおける内部論争の解決」を意図したものであるという事実だと、キッシンジャーは主張した。
 彼は国家安全保障担当大統領補佐官の職を提示されるわずか数か月前の1968年春には、「アメリカの外交政策などというもの」は存在しないとまで言っている。「何らかの結果をもたらした一連の措置」が存在するだけで、その結果は「事前に計画されていたものではなかったかもしれず」、それに対して「国内外の研究機関や情報機関は、そもそも存在していない……合理性や一貫性を懸命に与えようとしているのだ」という。

下巻 P.146

 複雑さは安くない。それどころか恐ろしく高くつく。行政国家は、公共の「財」の量を増しながらもそれに見合った増税をしないという課題の、安直な解決法を見つけた。政府の現在の消費を借金によって賄うのだ。同時に、オバマ政権は連邦債務をほとんど倍増させる一方で、監督権限を行使して新たな方法で資金を調達した。例を挙げると、銀行の低投融資慣行の調査の「調停」で1000億ドル以上、ブリティッシュ・ペトロリアム社の「ディープ・ホライゾン」原油流出事故の賠償計画から2000億ドルを調達した(オバマ政権は政治上の盟友のために、ゼネラルモーターズクライスラーの「管理された経営破綻」にも介入した)。
 とはいえ、行政国家のこうしたご都合主義の処置はみな、民間部門に負担を強いて、けっきょくは成長率や雇用創出を低下させてしまう。財政の世代間格差、規制の爆発的増加、法の支配の劣化、教育機関の弱体化が合わさると、景気動向と(これから見ていくように)社会的結束の両方の「大衰退」を引き起こす。要するに、行政国家は政治的階層性が破綻に向かう悪循環の表れであり、規制を噴出し、複雑さを生み出し、繁栄と安定の両方を蝕むシステムなのだ。

下巻 P.254

 

 アントニオ・ガルシア・マルティネスはこう言っている。「シリコンヴァレーは実力主義だなどと言っているのは、思いがけない出来事を通してか、特権集団の仲間であることの恩恵を受けてか、裏で不正きわまりない行為をするかして、実力とは無関係な手段で大儲けした人間だ」。つまり、このグローバルなソーシャルネットワークは、それ自体がシリコンヴァレーのインサイダーの独占的ネットワークに所有されているのだ。

下巻 P.268

 

 

 

 

書影を見て知っていたはずだが、手に取って厚さに驚いた。超京極級。およそ400p。
開いて驚いた。情報密度の低さに。倍に詰め込んで500pで一冊かなとか思う。
バブル期とハリー・ポッターを経て出版社はこういう商売がデフォルトになってしまっている。本が出ることを有難いと思いつつ、それでもナニカを想うを禁じ得ない。

はしがきと第一部はとっちらかっていて、まとまっていない内容をごまかすために著者が誇ってやまない自らの知識量で煙に巻くタイプのスタンド使いかと思ったが、主張の方向性が示されるにつれて面白くなった。
上巻のサブタイトルは「ネットワークが創り替えた世界」だが、「ネットワーク」とはかつて「コネクション」と呼ばれたもので、人々のつながりを指す。その集中度と情報伝達の速度を軸に、歴史を解釈しなおす。イルミナティロスチャイルドを盛り込んで興味を掻き立てられる一方、欧米の歴史に詳しくない者としては勉強不足を痛感させられた。

結論に至るまでのあいだは、間違いなく楽しめた。結論がまた序文と同様の風合いをもって、とっちらかっている。
著者紹介を見るまで気づかなかったのだが『大英帝国の歴史』の著者であった。なるほど、それなら頷ける。ダブルスタンダードの極みというやつだ。
上巻の冒頭でイルミナティロスチャイルドにまつわる陰謀論を一蹴し、それらが構築し得たネットワークについて語ることで同勢力の隆盛と限界を語った。その一方で、下巻ではザッカーバーグとトランプを槍玉にあげている。陰謀論を否定した一方で、陰謀論ともとれる言葉を吐いている。

歴史の眺め方として新たな視点をもたらしてくれた一方で、さすがは『大英帝国の歴史』の著者、フェアじゃないと思うを禁じ得ない。