でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

ペインティッド・バード

ブンガクというものが嫌いになったのは、大学時代の教養科目であった英文学的な講座を選択した後のことだと思う。
小学校、中学校では国語は得意で、「作者の気持ちを云々」「登場人物の云々」というようなテスト問題にも正解を得られていたことはさておき、同講座で得られた学問的態度は、文学への解釈は権威が認めるマストな解釈があり、そこから逸脱することは異端であるというようなもので、文章を好きなように読むことができないブンガクというものに強い違和感と抵抗感を覚えたからだと思う。

文章そのものの美しさを愛でることは良い。隠喩を讃えることもよい。それに気づく人もいれば気づかない人もあろう。熱狂的な支持者がいるということで、萌えの先駆者といえる。問題は解釈に権威が生じたことで、決して文筆家とはいえない立場の者らがそれをかさに着るようになったことではないかと思う。

そして、ブンガクとラベリングされたものが作品として面白いわけでは決してないということが個人的には最も重要である。

本書は、物心つく前くらいの男子が主人公である。物語の終局で十二歳と明示されているが、開始時点で何歳であるのかは明示されていない。序盤は子供のように描写されており、そのように読める。だが、中盤に差し掛かる前から著者の忍耐が尽きたのか、初心を忘れたのか、子供の目線を想像することにつかれたのか、著者のアバターになりさがる。
物語作品は作者の創造物であるからして、全てを自由にする権利はある。だが、物語の中に神が登場して全てを見通す視線で物を語る作品が面白いことは稀である。

本書の最後に書かれている「この作品が作り出したムーブメント」はまあ、面白い。そのようなムーブメントがあったからこそ、ブンガク作品として分類されたのであろう。