でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

ミヤザキワールド

 それでも、監督が生まれた年の日本は、うまく時運に乗っているように見えた。伝統的な制度や習慣を切り捨て、学校制度からステーキディナーに至るまで欧米のものと入れ替えることで、日本は近代化に成功した初めての非西欧国家となったのである。一九三〇年代後半までには、日本は世界中から尊敬と恐怖の念さえ抱かれている帝国を築き上げていた。こうしてついに、この国は、歴史学者ウィリアム・ロジャー・ルイスの言う「帝国を支配する白人専用のクラブ」への仲間入りを果たしたように思えた。そして、一九四一年一二月には、ハワイの真珠湾アメリカに対して劇的な軍事的勝利を収める。その際に、壊滅的な攻撃によってアメリカを震撼させた爆撃機の護衛を務めたのが、いわゆる「零戦零式艦上戦闘機)」として知られる驚異的な性能の戦闘機だった。

P.49

 アメリカの映画館で初めて『もののけ姫』を観た時、私はある友人と一緒だった。彼は宮崎の映画を観たことがなく、日本の文化やアニメにも接した経験がなかったが、大冒険活劇という触れ込みで、とくにアメリカではディズニー配給作品だったことも手伝って大いに興味をそそられていたようだった。ところが、映画を観ている最中に、友人は私をしきりに肘でつつき始めた。「誰がヒーローなの?」と彼は苛立った声で囁いた。「誰がヒーローで誰が悪役なのか、さっぱりわからないよ!」と言うので、私もこう囁き返さずにはいられなかった。「そこが肝心な点なのよ!」

P.283

 

 最初の引用は、『アメリカの鏡・日本』を思い出させる。
二つ目は、アニメ版トランスフォーマーについてのある説を。言わずもがなの場面で「さあ、戦いだ!」というナレーションが入るのは、アメリカ人はバカだから言わないとわからないという説だ。

宮崎駿を初めて意識したのはカリ城か漫画版ナウシカか。『未来少年コナン』はオンエアで見ていて好きな作品だったが、意識したのち、関係を知ったように思う。漫画版ナウシカは小学校か中学校時代の友人の影響で読み始めたように思う。

劇場版ナウシカにひどく失望し、それゆえか以後『もののけ姫』までジブリのアニメは映画館で見ることはなくなった。『もののけ姫』は別の理由で失望した。話は良いが、絵が好みではなくなったことである。好みとは主に顔の輪郭で、似たような症例は安彦良和たがみよしひさに見られる。症例――妙にしもぶくれになった氏の絵は、どうにも受け入れがたく、以後、また映画館で見ることはなくなった。

それでも、宮崎駿について時折思い出したように興味は覚える。覚えては失望する。近頃だと『風の帰る場所』がそれにあたり、一年以上も読み終えられずにいる。
失望しても、知りたいという欲求はあり、そこで本書を知った。

本書は、宮崎駿についててっとりばやく知るためには良い読み物であると思う。前述の理由から多くの作品について強い思い入れはなく、深い知識も持ち合わせていないため、本書の著者の主張に強い反発も大きな共感もなく概ねフラットな気持ちで読めたことがその理由と言えよう。唯一平常心を失ったのは、漫画版ナウシカについて割かれた章である。

著者は劇場版ナウシカを一つの完結した物語としてとらえているようだ。個人的には、当時連載済みの物語からキリの良いところで区切った未完成品、そのために話の筋を変えたまがいものという認識である。劇場版ナウシカは評価にすら値しないというスタンスである。

また、個人的には非常に優れた作品と感じている漫画版ナウシカについて、連載期間に生じた著者の心情の変化が作品に影響を及ぼしたことを述べている。ハッピーエンドといえなくもない劇場版と、ハッピーエンドとはあまりいえない漫画版を比較して、後者がそうであるのは著者の心情の変化によるとしている。
作家にはそういうことがあることは理解している。巨神兵だって最初はメカメカしてたし、連載するうちに構想が変化することも理解している。だが、まがいもので評価に値しない作品と比較されながらそのように論じられると、なんか、もやる。

上記のような個人的理由を例にして、宮崎作品に一つでも好きなものがあるなら、このような評伝は読むべきではないと警告する。どうしても他者の評価を望むのでなければ、読むべきではない。

そうでないならば、本書はとてもおすすめだ。なにかしら、もう一度見たくなるに違いない。個人的には、カリ城と『もののけ姫』、千と千尋を見返したくなった。