でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

小説 東のエデン 劇場版 The King of Eden Paradise Lost

本編をアマプラで久々に二度目の視聴をした。
一度目で覚えていることといえばミサイルの応酬で終わって残念というものだったが、二度目ではミサイルで始まってるんだからミサイルで終わるのが筋かと思い直し、評価は上昇した。

見るつもりで忘れてたのか、一度目の結末が気に入らなかったからか、劇場版は見ていなかった。今回の視聴でいろいろ調べて存在を思い出し、今時見るならどんな方法が良いかなとさらに調べたら、劇場版の小説版を思い出した。
劇場版を見たとして、気になることがあったら小説版を読むであろうと思えたので、小説版を選択した。

このオチのために、いろいろと無理があり、また台無しになっている。
そんな風に思える結末である。
言いたいことはわかるような気はするが、それを表現するために、底の知れない悪玉が小物になっちゃった観もある。この場合、物部と亜東だが、双方ともに残念な感じで収束してしまった。

なによりも「滝沢」は語り手の意思の具現でしかないという印象が強化されただけに終わったということがある。創作に登場するキャラクターは創造主たる作り手の意思の具現ではあるが、それに操り糸が見えるか見えないかで印象は変わる。彼につけられた操り糸は見えすぎる。脇役や悪役が魅力的に見えるドラマの一要素ではあろう。
彼にまつわる追加エピソードは、キャラクターの肉付けというよりも、ミスディレクションのための小道具としてしか見えず、また謎を残すことによる続編示唆の一部として配されたようにしか見えない。

魅力的な諸々の設定も10年で古びてしまったが、本作品が取り扱った問題は深刻の度合いを深めて進行中である。
小説版を選択して良いと思えたのは、『No.7』が読めたことだろうか。No.3のジュイスがどんなだったか知りたくなる。

ロード・エルメロイII世の事件簿 2「case.双貌塔イゼルマ」

ミステリーが嫌いだ。

80~90年代にテレビでやっていたような事件ものドラマにおいて、まず自身のそんな特性に気付いていった。金田一少年の裏事件簿ではセルフパロディとして犯人たちの行動をネタにしているが、当時、そのようなことを思い至るにあたり、楽しめなくなってしまった。テレビドラマばかりではなく、いわゆる探偵小説も同じ理由で、次第に読まなくなっていった。

ミステリーの潮流には、少なくとも日本のそれには『羊たちの沈黙』以後という潮目が感じらる。個人的にはそういう作品を「おサイコさんもの」と表現している。同作品のサイコ部分だけ都合よく切り取り、犯人の動機は犯人がサイコだからという、ミもフタもないものだ。

前者はフーダニットとハウダニットが、後者はホワイダニットが重視されているように思う。その意味では本作品も先に述べた潮目のあとに連なる作品ではあるのだろう。
だが、それを唾棄しているように感じられる点で、すくなくとも作中人物がそれを一蹴している点で、一線を画している。個人的にはギリギリのラインであり、嫌いになっても不思議ではない。特に、種明かし以後の展開は実に危うい。

ミステリーファンは、このジャンルのどの辺に魅力を感じるのだろうか。仕掛けそのものだろうか。
個人的には、物語として破綻していると感じられる作品は楽しめない。ミステリーについては謎が大仕掛けで凝っていればいるほど物語として破綻していると感じられる(犯人たちの事件簿がそれを示している)。ミステリーでなくても、ネタ晴らしパートが探偵の推理公開タイムになってしまっている作品は同じように感じる。近頃でいうと『風と行く者』だ。

謎解きのカタルシス、探偵役のカッコ良さ。これらも魅力の一つであろう。
しかし、これらを表現する際に、周辺を落とすことによって主役を引き立たせる、作者という神の視点から読者を揶揄する、そんなやり方が用いられていると感じられるようになってからは、これらに感じ入ることは少なくなってしまった。
自身は「著者より頭のいい登場人物は登場できない」とかねてから主張するもので、今もこの意見に変わりはない。近頃それに反証する例を目にしたが、反証の言い分が「頭のいい設定」にすればいくらでもできるじゃんというものだった。いや、そうでなくて。

近頃は概念も詳細化して、通じるかどうかはどうかとして、様々に現象を表現できるようになった。「地頭の良さ」はその一つ。前言についてこの言葉で説明を試みれば、「地頭の良い」キャラクターをそのように振舞わせるためには、それを表現する者にそれなりの下地は必要だということになる。頭がいい登場人物ならば、振る舞いや言動にそれが顕われていなければならない。品の良さとか言葉づかいではない、上っ面ではない知性なり品性の表現が必要になる。例えばガッツは脳筋として描かれていたが、己の力を知り抜いたうえでの狡猾さないしは知性が描写で読み取れる。あるいはアッシュは・・・頭の良さ表現が秀逸すぎて、『バナナフィッシュ』はアッシュ神話になり果ててしまった。作中の文明レベルを低く設定して、登場人物の神童ぶりを表現した例としては『辺境警備』の神官さんはとても良かった。
作者だからこそ知りえる今後の展開を予測してみせたから「頭がいい」という表現は違うと思うのである。

さて、本シリーズについて。
まだ読むに耐えるが、完成度が高いだけに瑕疵が気になるという点はあり、セリフや戦闘描写に落差がある。さっきはいい表現だったのに、いきなりナニコレというカンジ?
自覚し改善したものか、1巻で感じた「戦闘描写のアレ」は本巻では減じている。これもところどころ品質の差が激しいが、菊地秀行的超伝奇描写もハマってきている。
次巻はもっと期待していいのかと思えば、きっと続きを読むことになるだろう。

オーバーロード 1 不死者の王

自らかしたゆるい誓いに、なるべく未完の作品は読まない、というものがある。

楽しんでいた作品が途絶えた。続刊が出ないと手放したシリーズが、手放した途端刊行された。最近の例で言うと『十二国記』や『守り人』である。
好きだった作品がなんか知らんが突然腐った、などの理由による。
幾度となく打ちのめされてやっと身に刻み込むことができた人生の教訓だ。ゆるいけど。

楽しめたアニメが、原作作品では楽しめないことが多い。ラノベ作品は特に。
ハズレばかり引いていたのだと、近々引いた二つのアタリを例にして思う。『ロード・エルメロイII世の事件簿』および『オーバーロード』がそれにあたる。

オーバーロード』はアニメ版とは違うと聞かされて、Web版を少し読んであわないと感じて読むのをやめてしまっていた。今回、手に取ることにしたのは多少なりとも好奇心があったためで、それに従ってよかったと思う。

オーバーロード』に心動かされるのは、かつてEverQuestで廃だったからだと思う。作品を問わず、MMOに一定以上耽溺した者ならば、モモンガの気持ち、あるいは去っていった者たちの気持ちがよくわかるのではないだろうか。それこそ、自分のことのように。郷愁に似た懐かしさを覚えるのではないだろうか。

そしてまた、「ナザリック地下大墳墓」という名称に響くものを感じる者もいるのではなかろうか。いかにもMMOのゾーン名にふさわしい。個人的にはネリアックと印象が重なる。

本作品一巻を読み終えて感じたことは、奇異なことに、アニメ鑑賞後の感想と等しい。
すなわち、ナザリック地下大墳墓を含むユグドラシルパートともいうべき物語展開は非常に楽しめるのに比して、異世界パートがなんだかしらけるというものだ。理由はよくわからない。
小説作品独自の感想としては、あまり戦闘パートには熱を入れて描写しない方がいいのではないかということだ。スキル制な武術って、魔法と変わらんしね。

ともあれ、続刊を読むことは間違いない。

ロード・エルメロイII世の事件簿 1「case.剥離城アドラ」

ロード・エルメロイII世というキャラクターを知ったのはFGOで、当時バスター至上主義者だったnoobは、フレンドサポートに並んでいてくれることの稀有な価値も知らずにいた。試しに使って、攻撃宝具でないことにがっかりもした。FGOのギミックが加速度的に課金者向けになっていくにつれ、その価値を認め、孔明を渇望するようになるのはもうしばらく後のこと。マーリンに遅れること一年半で、孔明を迎えた。

その後、アニメ版Zeroを見て、ウェイバー・ベルベットを知る。ロード・エルメロイII世が再臨するとウェイバー・ベルベットになることは察していて、その理由がふと気になって本作品に出会った――逆かもしれない。ウェイバー・ベルベットになる理由を知り、Zeroに至ったのかもしれない。
ともかく、ウェイバー・ベルベットにはあまり好ましい印象を得られなかったが、ロード・エルメロイII世としての人生につながるなら肯定できる。そんな印象を持った。

アニメ版事件簿を見て、小説に手を出そうか迷い始めた。楽しめたアニメ作品が原作小説で楽しめないことが続いて、だいぶナイーブになっている。
不安に対し興味がついに勝ち、一気に読了。

楽しめたかといえば肯定だが、全肯定はできない。そんな感想がある。

本作品の文章には、大きく四つの成分が感じられる。
その分類が適切かすべてを満たしているかはさておき、それらに名付けるなら「魔術」「ミステリー」「菊地秀行的超伝奇文体」「グレイが活躍するシーンの文体」である。
「魔術」については、少年時代にカバラを扱った書籍を読んだ経験から、うん、そうだよね、そんなカンジと肯定できる。「ミステリー」というジャンルは楽しめない体質だが、本作品のそれは肯定的にとらえられている。基本的にミステリー作品はアホらしいと感じられてしまって、本作品のオチもまあ嫌いな方だが、ホワイダニットを強調する作風はそんな性癖の持ち主に安定剤として機能するようだ。
おそらくは、だが。著者が最も書きたいか、オマージュ的に避けられないという理由で一部に採用されている「菊地秀行的超伝奇文体」はあまりうまく機能していないと感じられ、この部分について大きな不満がある。この成分はむしろナシにしてもよいのではないだろうか。「グレイが活躍するシーンの文体」でよいのではないだろうか。
そんな風に感じている。

本作品を読んでアニメ版と異なる印象を得たのはグレイで、「頭悪い」が執拗に強調されていることと、「アニメ版ほどうぶなかんじではない」ことが感じられる。残念さを強調したい、あどけなく無害に見えても内心で何を考えているのか伺い知ることはできない、クライマックスの凛々しさを強調したい。そんなことを読み取ったが、意図したことかどうかはわからない。

続刊に手を出すのに若干のためらいもあるが、きっと読むことになるだろう。

この素晴らしい世界に祝福を!

ジュブナイルは、十代半ばごろにソノラマ文庫をそこそこ嗜み、ハヤカワに進みながらも角川スニーカー文庫富士見ファンタジア文庫を少数たしなんで離れた。

ハルヒはアニメでまず見て超楽しんで原作を読み、展開的に詰んだと感じた数巻後に発信が途絶えた。エンドレスエイトは見なかった。シャナはアニメでまず見て原作を読み、総じて面白く読めたが終盤の超展開がアレだという印象は残る。とらドラはアニメから入り原作も楽しめた。その他幾つか、楽しんだものはある。

ジュブナイルから離れてしばらくして、手を付けずに難を示すのもフェアではあるまいと、おすすめを尋ねて着手した初ラノベがEGCで、これがラノベなのかと感服至極だったのだが、例外だったと思い知るのは他数作品を経てからのこと。
その後はアニメから入るようになったわけだが、やがて原作は読まないようになった。
アニメとして面白くても、文章作品として楽しむには足りないと感じることが常になったからだ。「インデーックス!」「グハァー」みたいな文章はあわない。「名を叫んだ」とか、「苦鳴をもらした」とか、適切な文章があるだろ。

本作品の入り口は「海外の大物監督が劇場版に満点レビュー」的な記事だった。
興味を覚えてすぐ試してみたものの、第一話60秒くらいで一度挫けた。せめて一話を見ようと気を奮い立たせたのは正解だった。面白い。

ドラゴンランス』シリーズ――ただしワイス&ヒックマンの著作の一部に限る――は魂の書である。他ジャンルで並びまた超える作品はあれど、ヒロイックファンタジーでは並ぶ評価の著作は少ない。
自分でもたまげたことに、本作品に由来不明のドラゴンランス臭を感じさせられ、なんだかしらないがものすごく気に入ってしまった。

ラノベ、特に転生系の記号効果は実に素晴らしい。ここ数年、ごく少数の作品を視聴したのみの感想だが、強くそう思う。気に入った一因はこの辺りにあるのかもしれない。
特定のルートを辿っている読者に限るという弱点はあれど、それを記号として解釈できる読者に対しては、小説には宿命ともいうべき解説調を大幅に省略可能にしている。原作作品を読んでいないので実際にどのようなものなのかはわからないが、本アニメ作品では説明が最小限度にとどまっている――転生ルールやスキル獲得ルールくらいだ――と感じられる。メタがより効果的なネタとして使える。
同時代の限られた一部でのことなので、例えば10年後に新規読者が面白いと感じられるか、今現在、前述のルートを辿っていない層に楽しめるのかと思いもするが。

絶対に住めない世界のゴーストタウン

原題"GHOST TOWNS"。
原題がまず語られるということは、邦題に不満があるということだ。
内容は原題にふさわしい。見ごたえのある写真集で、いささか物足りないと思えるほどだ。

だが、邦題が。
『絶対に住めない世界のゴーストタウン』に想起される印象と期待感と、"GHOST TOWNS"に想起される印象と期待感は異なると思うのだ。前者はどことなくバラエティ、下世話な言い方をすると、野次馬根性を満たすもの。後者は灰色の世界観とでもいうべきか。
原題は後者にふさわしい。カラー写真だけど。写真に添えられた解説文もそういうテンションだ。
だが、邦題は。

薬屋のひとりごと

少女漫画をそうと意識して自発的に読んだのは小学生、たぶん高学年だったと思う。
コロコロコミックの購読をやめ、コミックボンボンの購読をやめ、ジャンプを読み始めた頃、なけなしのお年玉で『ブラック・ジャック』全巻(当時全21巻だったと思う)を古本でそろえるなど、小遣いのいくばくかを投入して得た蔵書は貧弱で、やがてすべて読み飽きる時が来た。

地方都市に存在していた実家には、車が数台止められるスペースがあり、簡易な片持ち屋根のみのガレージがあった。物を捨てられない父親はそこに廃棄予定の品々をためこみ、屋根の下はだんだんと車ではなくゴミのスペースになっていった。その中に、近所に住んでいたおばの愛読書であったらしい『花とゆめ』があった。

それと意識した少女漫画との出会いが『花とゆめ』というのは、姉や姉的存在をもつ男子ならば普通にありえたことで、さして珍しいことではないかもしれない。当人にしても『ブルー・ソネット』や『スケバン刑事』、『パタリロ』が掲載されている雑誌を当初少女漫画とは思っていなかったか、思わないようにしていた節がある。それらにも読み飽きたとき、『ミルクタイムにささやいて』とか、わりとアレななかでも男子小学生のマインド的に読むに耐えるものに着手して、現在の自我が形成された。

「少女漫画」という呼称は区別か差別かという話題が一時期あったように記憶しているが、個人的には区別である。面白ければ読むし、他のジャンルと同様、あわないと思えば読まない。他になんと呼べばいいのかという議論には「フラワーコミック」とか「花とゆめコミック」と呼べばよい、という回答が与えられていたが、それらを包括する呼称についてどう決着したのか、いまだ知りえていない。

さて。
薬屋のひとりごと』は小説だが、王道少女漫画的である。読んでいるとき脳裏をよぎっていったのは『はいからさんが通る』であり、『ときめきトゥナイト』であった。
どちらも嫌いではないが、後者は話が進むにつれてバトル物でいうなら戦闘力のインフレともいうべき現象が発現し、つまり、どんどんと設定が盛られていき、あたしもスーパー、彼ぴっぴもスーパーになっていっちゃって、なんだかなあという印象が強い。ジャンプ的バトルものが好ましいと思えない原点は、このあたりにあるのかもしれない。
近年の作品では、漫画ではないが『トワイライト』シリーズや、『ハンガー・ゲーム』が相当する。後者は『~イレーナ』の系統で好ましくない。
前者は嫌いではなかったが、巻を重ねていくごとに盛りがすごくなっていって辟易させられてしまった。超絶イケメンでケンカに強くて、でも優しくて、セレブで、なにか事情があると思ったらバンパイアで、どこもイケてないあたしにメロメロなのという、理想の彼氏像が読んでて辛い。イケてないあたしも、なんだか事情があるらしいところで読むのをやめてしまった。いわゆる少女漫画設定は洋の東西なしということなのか、『トワイライト』がMANGAを研究したということなのか。
個人的には物語に登場するカップルはカップルとして受け止め、彼氏のいる作中人物をいいなと思っても横恋慕することはない。だから彼氏のいるヒロインが主人公の物語が受けるのかという疑問に対して、「ヒーローを彼氏にして妄想する」という回答を、とある女性から得たことがある。「でもそのヒーローには彼女いるじゃん?」と返したら、「その彼女は飛行機事故かなんかで死んだことにするの。傷心の彼氏をなぐさめて、彼女になるの」とか言っていた。殺すところから始まる恋物語

本作品との出会いは漫画版であり、お試しで多分1巻を読んだ。面白いと思ったが、そのころは読後メンコにしたくなった『毒味師イレーナ』を読んだばかりであり、なんとなく似たテイストだったのでそれ以上の介入を避けた。
ちなみに『毒味師イレーナ』の原題は"Poison Study"である。せめて邦題が『毒味役イレーナ』だったなら、メンコ気分にはならなかっただろう。師とかいったら、違うストーリーを想起するじゃん!?

その後、アマゾンのセールで見かけたので購入してみたら漫画ではなく原作小説で、ちょうど小説を読む気分ではなく漫画が読みたかったこともあって勘違いに意気阻喪し放置していたが、ついに着手する気になり、気づいたら1巻を読破していた。
面白いのだが、しかし、前述の設定過剰を早くも匂わせており、不安が募る。後出しにならない配慮と思えば良心的だが、経験値が邪魔をする。

おすすめではある。
気にもなるのだが、この先はきっと当方には禁区だと思うを禁じ得ない。