でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

工学的ストーリー創作入門 売れる物語を書くために必要な6つの要素

漫画作品に対しては割と早い時期からそういうものであると認識していたように思う。
小説作品に対してはたぶんハイティーンの頃にそうではないかと気付いた。

著者が物語をコントロールできていない商業作品が存在する、ということにだ。

それまでは漫画をおもに読み、物語作品はアルセーヌ・ルパンのシリーズとか少数だったが、小説作品を意識して読むようになってから三年ほどが経過していた頃だ。ソノラマ文庫から入り、ハヤカワSFやFT、角川のジュブナイルクトゥルフ神話作品など、手あたり次第に読みまくっていた頃だ。

当時のお気に入りといえば筆頭は菊地秀行平井和正栗本薫である。そしてまた、著者が物語をコントロールしきれていないと気付かせてくれたのも同著作だった。具体的には『魔宮バビロン』、『人狼天使』、『グイン・サーガ』のカメロン節、である。

誰のどの作品のものだったか覚えていないが、「キャラクターが走り出す」ことが嬉しい、喜びであるというようなことを自著のあとがきに書いていた作家がいた。この言葉に感じたのは、不信感、嫌悪感、マジか!?というような類の驚愕である。キャラクターも含めて創作物を完全に制御しているのが作家だという認識から、そう感じたのだろう。少なくとも優れた作品にはそう感じることができたし、例に挙げたようなものは明らかに暴走状態であるとはっきりわかる。
これに類するものとしては天野喜孝症という強烈な病に侵された事例がある。この絵描きに表紙を描かれた作品は腐りやすくなるという病だ。少なくともDは四巻あたりからキャラが変わったし、イシュトヴァーンはカメロンへと路線を変更した。読者の要請か、著者がキャラクターを完全にイメージしきれていなかったところに強烈なインパクトを受けたせいか、それとも絵描きにに配慮する形で沼に堕ちたか。いずれにせよ、完全制御下になかったために発症したのだと思う。

本書は、長らく燻っていた若き日の遺恨を晴らす鎮魂歌となった。
作家がどのように書いているのかは読者にはわからない。だが、本書に紹介されている言葉でいうならパンツィングで書かれていたからそうなったのだと理解できる。路線がころころ変わる週刊連載と同じノリだ。そんなもん書下ろしで出すなといいたいが、バブルという時代の悪果であろう。あるいは、著作者が十分に報われないから多産せざるを得ないという、昨今いろいろ話題の業界性に依るのかもしれない。

著者は映画『トップガン』と『ダ・ヴィンチ・コード』にすごく思い入れがあるようだ。前者に対しては恐らく「若い頃大好きで繰り返し何度も見た。いろいろ言われてるし思うところがあるが、大好きだ」というものであろうと察する。後者に対しては「売れやがってこんちくしょう。構造分析してやったぜ」というところか。
本書には幾つか引き合いに出されている小説や映画があり、そのうちの一つである映画『コラテラル』が未視聴だったので本書で得た学びを気にかけつつ鑑賞してみたのだが、本書でいうところのミッドポイント以降の展開が好みではなく、引き合いに出された理由を解釈しかねている。
そのため、本書が主張するところについて我が理系脳は大絶賛しているが、感性としては受け入れがたくもある。