三体
あとがきによれば、中国で最初に出版された版では、章構成が異なっていたらしい。当時の中国国内の事情に配慮して書籍化にあたって変更したもので、英語版は著者の意思に従って元の構成に戻したしたという。日本語版の構成は英語版に準拠している。
もし、中国語版の章立てのままであったならば、ひょっとすると最後まで読まなかったかもしれない。個人的には第一部でずいぶんと期待させられ、第二部冒頭で「アレ?大丈夫かな、コレ?」と思ってしまったからだ。
本書には三度、失速と感じられるタイミングがあった。失速しても読み続けられるほどの作品であったことは幸運である。失速と表現している事態は様々であるが、物語が当初感じられなかった方向へ舵を切ったと思われるタイミングで発生する。個人的に受け入れられなかったケースとしては、『ハリー・ポッターと死の秘宝』が「愛が勝つ」な結末だったりとか、『正解するカド』がJKバトル物になっちゃったりしたことが挙げられる。アレなケースでも、ダン・シモンズ作品なんかは、結末はともかく、よう拡げたと笑って受け入れられている。
よい作品は転換点に違和感がないか、シフトアップと感じられる。物語の軸と感じられるものがぶれていない、それまで提示されてきた情報がダイナシにならないことが肝要と思われる。
本書についてはそれがシフトアップではなく次元が上昇したと感じられたことが稀有であり、ここ十年くらい、世間で取り沙汰されてきたSF作品のいくつかにまるでフィットできず、それゆえSFから遠ざかっていた感性の持ち主をしてセンス・オブ・ワンダーをいたく刺激させた。
三部作の第一作目であり、続刊は2020年刊行予定ということで、しばらく脱水せねばならない。だが、二度と乱紀のやまぬであろう秋山某と違い、待てば恒紀は訪れるであろう。
htmという拡張子がやや残念であったことは余談である。
近頃IT技術書を乱読していて、どういう巡りあわせか『伽藍とバザール』を読んでいた。これにより、本書中のとある一行に引っかかりを覚えずに読み進められたことも余談である。