でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

世界を変えた火薬の歴史

(「カルヴァリン砲」について)・・・この型の砲の大きな利点は従来の巨大攻城兵器よりずっと速く冷えることで、その結果、発射速度が大幅に向上した。一四三七年のメス包囲戦では、ある砲手が一日三度、大砲を発射することができた。これはふつうではありえないことだったので、悪魔の仕業にちがいないと考えられた。砲手はローマへ巡礼に旅立ち、罪を悔い改めることを余儀なくされた。

P.155

・・・しかし火砲技術はまだ初期段階にあり、火砲製造は火薬製造と同様に、特殊工芸だった。武器を規格化して製造しようという試みはほとんどなされず、砲はそれぞれ設計が異なり、専用の弾薬を使用した。砲にはロット番号ではなく、あいかわらず個人名がつけられていた(中国ではこのころロット番号をつけていた)。ローマ教皇ピウス二世はエイネイア、シルヴィア、ヴィットーリアと名づけられた砲をもっており、フランスのルイ一一世はイアソン、メデイアと呼ばれる砲を所有していた。

P.157

 税収を増やし、新型火薬兵器を装備した陸海軍を運営しなければならないということは、支配者がさらにいっそう効率的な官僚組織をもたなければならないということでもあった。中世ヨーロッパでは、政治は王家のひと握りの書記(たいていは聖職者)によって行われていた。火薬兵器の登場で、このシステムは変わらざるをえなくなった。新型兵器がもたらす圧力がきっかけとなって、近代国家官僚制への転換がはじまったのである。役人は硝石を見つけだし、火薬製造を組織化する必要があった。ほかの役人は、兵器庫や海軍工廠の開発、海外生産を管理し、必ず原料が納入されるよう徹底しなければならなかった。また、税金を集めるのはもちろん、陸海軍の兵士を徴募・訓練し、給与を支払い、管理することも必要だった。こうした圧力の影響は、歩兵火薬兵器が一般的になり軍隊の規模が急激に増大しはじめるにつれ、一六世紀初頭には出はじめた。
 国家の多くは、新しい環境にただちに順応することは困難だと悟り、ほかのだれかに戦争をお膳立てしてもらうのがいちばん簡単だと考えた。請負業者はかなりの大金を即金で支払われて、兵士を提供し、戦闘で指揮した。一六三〇年代の三十年戦争さなかには、四〇〇を超えるこうした請負業者が営業活動しており、皇帝に軍隊を提供したヴァレンシュタインは一連の熟達部隊を維持、管理していた。戦いに勝てば、この兵士たちは略奪やそれから得た利益で非常に裕福になれた。しかしこれはたんに一時的な現象で、支配者はほどなくこうした仕事は自分たちでやったほうがいいことに気づいた。その結果、役人の数が急激に増加した。組織化が進んでいたヨーロッパ諸国家のひとつ、フランスでは、火薬革命の初期段階の一五〇五年時点で、役人が一万二〇〇〇人いた。一六六〇年代には、当時フランスはヨーロッパ最大の軍事大国だったが、八万を超える役人を擁していた。

P.192

原題"Gunpowder"。
東洋の錬金術道教の信奉者である道家の哲学から生まれた仙道、その一部である練丹術を発端と説く。
産業革命の前段として覇を競いあった時代があり、その様相を大きく変えたものが火砲であった。この時培われた金属加工のノウハウと、「火薬機関」の試行錯誤と挫折が、やがて蒸気機関を誕生せしめた。
一つのテーマにしぼって時間と空間を軸に語る手法の書では『銃・病原菌・鉄』がいまのところオールタイムベストだが、本書もそのような仕様だ。このような切り口は歴史のロマンを最大に感じさせる妙手であると強く感じる。
おすすめの書籍だがアマゾンでは高値な中古しかない。

以下、自分用メモ。本書に出現する順に抜粋。

時期
名称
説明
300年頃 葛洪の著書に、硝石と硫黄の混合物に最初に言及した記述あり
650年頃 隋の偉大な練丹術師、孫思バク(二点しんにょうに貌)は、同量の硫黄と硝石をいっしょにひいて混ぜあわせる製法を考案した。さらに、焦がしたサイカチの実を加えた(これが木炭の役割をはたした)。
808年 趙耐庵が編纂した『鉛汞甲庚至宝集成』に、硝石と硫黄に換装させた「ウマノスズクサ」と呼ばれる植物を混ぜることで「火でミョウバンを抑制する方法」が記されている。ウマノスズクサが炭素を供給するため、すぐさま発火して炎をあげるが、爆発はしない。
850年頃 作者不詳の『真元妙道要略』に、「ある者が硫黄、鶏冠石[二硫化ヒ素]、および硝石には蜂蜜[乾燥させたものであれば、これは炭素を供給する]と混ぜ熱した。すると煙と炎があがり、手や顔にやけどを負い、作業していた家まで全焼した」とある。
900年頃 西方より伝来したギリシア火を知った可能性がある。「猛火油」と呼ばれるものは「ギリシア火」とほぼ同じ効果があったらしい。「猛火油櫃」(ポンプ式火炎放射器)には、石油混合物に点火する導火線に利用する程度の、非常に威力の弱い火薬混合物(硝石含有率が低い)が使われた。
1040-1044年 最初期の火薬兵器についての最初の記述は『武経総要』に見られる。これは、曾公亮と宋の官選宮廷天文学者、楊推徳が一〇四〇―一〇四四年に編纂した兵書である。『武経総要ぶけいそうよう』は現存するこの時代唯一の兵書で、最初の火薬兵器が使われてから約一五〇年に書かれたとされる。
シツレイ火毬 シツ(くさかんむりに疾)レイ(くさかんむりに黎)。『武経総要』に記載。着弾した場所にぴったりくっついて火をつけられるように鉤と大釘がついていた。発射する直前、真っ赤に焼けた鉄を球に押しこんで点火した。混合物には木炭がふくまれていて真の火薬により近くなったが、まだ爆発物としての機能ははたしていなかった。|
毒薬煙毬えんきゅう 『武経総要』に記載。上記火毬の一変種。トリカブトヒ素をくわえて刺激臭のある煙を発生させ、敵軍に大打撃を与えた。
1040年以前 P.39より。こうした兵器のどれもが、火薬の三成分――木炭、硫黄、硝石の製造なしでは実現不可能だった。この三つのうち、最初の木炭は製造がいちばん簡単で、古くから知られていた。中国人はまもなく、木炭は材料となる木の種類によって、火薬に使用した際に違いがあることに気づいた。それは木の組織にの違いに追って、硫黄、硝石との混ざりやすさが変わるためだった。中国人はすぐさま、ヤナギの木炭が飛び抜けて適していることを突き止めた。硫黄はおもに、黄鉄鉱(「フールズゴールド」)から製造された。黄鉄鉱を練炭といっしょに炉に積みあげて熱し、硫黄を気化させ、それを冷やして固めて結晶させた。硝石は一部の土壌(河南省のものが格段に多くふくみ、一エーカー[〇.四ヘクタール]あたり年約一万三三六〇〇キロ産出した)や、尿がしみこんだ壁や床、とくに畜舎や便所から採取された。土に水を混ぜて大きな貯水槽に入れ、むしろで濾過する。それを蒸発によって濃縮し(人為的に熱をくわえることもあるが、天日干しが多い)、硝石をさまざまな植物の茎のまわりに結晶として析出させる。この最初の硝石の「収穫物」をもう一度溶解して再結晶させ、精製する。約七平方メートルの土からおよそ二二.五キロの硝石がとれる。これは退屈なひどい悪臭をともなう作業で、火薬に仕えるほど純粋な硝石にするには長い時間がかかった。火薬の三成分が手に入ったら、さらに混ぜあわせて爆発性の黒い粉にしなければならない。この作業では数時間かけてひたすらすりつぶし、硝石と硫黄を粉末にした木炭の微細な穴に付着させる(これが、どの種類の木でもひとしく効果的ではない理由)。目的は、タルクとほぼ同じくらいの細かさの均一な粉末をつくることだ。これは工場で行う作業ではなく一種の工芸で、おそらく長年にわたって火薬製造の訓練を受けた熟練職人の個人的な知識と技術にもっぱら頼っていた。この作業については初期の中国の書『紀效親書』に詳述されている。
900年頃~ 火箭かせん 紀元九〇〇年から三〇〇年ほどのあいだ、火薬兵器の発明はおもに五段階に分けられ、それは火薬の爆発力の向上とその威力を利用できる兵器の開発が基準となっていた。その第一段階。
900年頃~ 第二段階。火薬そのものを火炎放射器の主成分として使用した。
900年頃~ 第三段階。火薬をつめた容器を破裂させる兵器、爆弾がつくられた。
900年頃~ 第四段階。容器の一端を密閉して爆発力を後方に向かわせることで、ロケットが考案された。
900年頃~ 第五段階。爆発物を入れられる素材をつくりだし、それを使って投射物を前方に飛ばすことに成功した。これにより大砲と手銃をつくることが可能になったのである。
969年 新型の火箭 憑継昇は先端に火薬混合物をしこんだ。6年たたないうちにこの新兵器は運用され、宋に抵抗していた最後の国家、南唐の守備隊に使用して、それを打ち破った。
1000年 新型の火毬 水軍隊長の唐福は、新型の火毬と攻撃対象にくっつく鉤のついた変種とともに、火箭(焼夷矢)の見本を紹介した。
1040年頃 火薬鞭箭 具体的な機能はいまをもって不明だが、竹の弾力性を利用したものだったと思われる。矢はおそらく、長い竹の棒をひとりの兵士が後ろに曲げて発射し、もうひとりの兵士が狙いを定めたのだろう。
1050年頃 軍隊は雄牛に焼夷弾の入った巨大なおけをのせ、敵のほうへ追いたてた。
1083年 宋の陸軍司令官、趙高が補給品を要請すると、すぐさま二五万本の薬箭(火薬を装着した矢)が送られてきた。(兵器が効果的であるがゆえに、製造規模が大きかったことを示す)
火槍 新型の火箭と同時期の兵器。竹の棒に容器がしばりつけてあるだけの、約五分間炎を出す火炎放射器。〇.六メートルほどの厚紙を一六枚重ねてつくった筒を槍の先端にひもでしばりつけたもの。火口で点火する。射程は約三.六メートル。火薬が燃えつきると筒を捨て、通常の武器として槍を使用した。こうした武器は戦闘前に用意しておかねばならず、再装填もできなかった。そこで中国の技術者は、すぐさま多砲身式の改良型を開発した。砲身は通常ふたつ、ときに三つあり、最初の砲身を使いきると自動的にふたつ目に引火する導火線がついていた。・・・もうひとつ、火槍が火薬の歴史において重要な存在であるのは、金属の砲身を使用した最初の兵器だったからだ。こうした初期の砲身は硝石含有率の高い火薬の爆発力に耐えるほど頑丈ではなかったが、本物の砲へのきわめて重要な一歩だった。
1300年頃 火槍の変種 中国人は発射台を使用しており、八本の火槍が搭載され、装置全体に八つの車輪がとりつけられ、兵士一〇人のチームが操作した。
1150年頃 火筒 これは紙ではなく直径の広い竹の一節でつくられ、手で直接もって使用した。直径が広いため、筒には陶器の破片やくず鉄をつめることができ、炎とともに噴射した。のちに筒には猛毒のヒ素の入った玉や、敵の目をつぶすための砂も入れられた。・・・このより大型の火筒のひとつはまた(「撃賊突破砲」としばしば呼ばれた)、敵に炎を噴射するだけでなく、砲身に投入できるあらゆる種類の物質を使用した。ずっとのちの記述にはこうある。砲身は鉄製で、全長が約一メートル、把手が約六〇センチあり、この武器は歩兵が使用した。射程は三〇〇歩[これは誇張された数字で、最長で約九メートルだったと思われる。]敵は小弾丸で撃つか(離れている場合)、武器そのものでなぐり倒す(接近している場合)ことができる。
1000年頃 霹靂砲 火薬の真の爆発力を利用した最初の兵器は、「霹靂砲(phi li phao)」で、紀元一〇〇〇年ころに使われるようになった。この兵器の目的は、竹や紙でできたもろい外殻を火薬で粉砕することだった。このような兵器は多大な損害を与えることはまずなかったのものの、火薬に石灰の微粉末をくわえて目つぶしの煙を発生させた。
1044年 霹靂砲 一〇四四年の兵書には、この爆弾が都市の守備隊にどのように使われたかが述べられている。霹靂砲には、長さ二、三節の亀裂のない乾燥させた竹を一本使う。陶磁器の破片三〇個を一・三ー一・八キロの火薬に混ぜ、それで竹筒のまわりを包む。敵が地下坑道を掘って都市を攻撃しようとしたら、それにつながる対抗坑道を掘らなければならない。真っ赤に焼けた長い鉄の焼き火箸で霹靂砲に点火し、竹の扇であおいで炎と煙を坑道のなかに追いやり、敵の工兵を窒息させる。
1221年 震天雷 しんてんらい(zhen tian lei)。祁州包囲戦では、宋、女真族、モンゴルの三陣営全てが、この鉄の外殻をもつ最初の真の爆弾を開発していた。これは鉄の椀をふたつ接合したような形をしており、硝石含有率の高い火薬を使用していたにちがいない。というのは、ほかにこの外殻を粉砕できるほど強力な爆発物はなかったからだ。宋はこの兵器を大量生産しつづけた。荊州というひとつの町だけで月に二〇〇〇個を生産し、爆弾は通常、中央兵站部に集められ、二万個がモンゴル軍と対峙する北部の前線に送られた。
1247年 震天雷 元寇における日本の記録『八幡愚童訓』に、蒙古(モンゴル)兵は飛びあがるたびに鉄製爆弾を投げつけ、当陣営は目がくらみ混乱におちいった。わが軍の兵は雷鳴のような大音響をともなう爆発に震えあがり、目はくらみ、耳は聞こえず、西も東もまったくわからなくなった。
明の時代 群蜂砲 明が開発した。外殻が軽量な爆弾。竹と油紙を重ねたものからできていた。大量の鉄釘とともにナパームの一種と思われる「飛燕毒火薬」と呼ばれるものが飛びだした。
万火飛砂神砲 群蜂砲の変種。生石灰、樹脂、さまざまな毒草の抽出物がつめられた陶製の壺のなかに火薬の筒が入っていた。爆発すると生石灰に引火し、あたり一面、炎の海となった。
爛骨火油神砲 明が中国を支配下においたころに書かれた『火龍経』には、さまざまな種類の爆弾が記述されている。これは破片爆弾で、尿や桐油、糞便をつけた鉄の小弾丸や陶器の破片がつめられていた。
抗風神火流星弾 火薬にさまざまな有毒成分が混ぜられており、「牛や馬に引かせて使用する大型のものもあれば、手で投げられる小型のものもある」
万人敵 都市の城壁から落とし、包囲線めがけて転がすことができた。
天墜砲 投石器で空中高く包囲線の上めがけて発射し、爆発すると大量の小さな焼夷弾が敵軍の頭上にまき散らされた。
1250年頃 無敵地雷砲 都市の防衛に使用するようになった。一三〇〇年ころまでに、敵軍が通過するときに地雷を起爆できるしくみを開発した。
自犯砲 兵士が隠れた板を踏んでおもりがはずれると、鋼鉄製の車輪が回転して、一連の火打ち石とこすれて火花を放ち、それが導火線に引火して爆発した。一連の導火線がすべての地雷につながっていて、ひとつにつまづくだけで地雷原全体を爆発させることができた。
14世紀半ば 水底竜王 対艦水雷。震天雷の変種に近い。水雷は防水のため、雄牛の膀胱に入れて密封された。導火線は線香によって点火するしくみで、長いヤギの小腸のなかに設置して酸素を供給し、火が消えないようにした。
1200年 火箭 「huojian」はもともと「火箭」を意味したが、一二〇〇年になってまもなく、根本的に異なる兵器、ロケットを表すのにも使われた。同様に「huo phao(火砲)」はそもそも大きな石を投げるための投石機を意味したが、のちに大砲の意味に使われた。・・・最初期のロケットは硝石含有率の低い火薬が使われていたはずで――というのは、威力の強いものなら兵器がばらばらに吹き飛ばされていたからだ――祖先はふたつあったと思われる。ひとつは「火箭(huojian)」で、これは石弓や長弓から発射する、火薬を先端にしこんだ焼夷矢だった。もうひとつの祖先は「地老鼠(dii lao shu)」である。これはもともと、元旦を祝って火に投げ入れ爆発させる竹筒に由来する花火だった。・・・ロケットは「火箭」と「地老鼠」をひとつにしたもので、一一八〇年ころには使われていた「流星」「彗星」などと呼ばれるロケット式花火から発達した可能性がある。ロケット兵器をつくるための第一歩は、「地老鼠」を「火箭」にとりつけることだったのだろう。
西瓜砲 薄い容器の爆弾で、爆発すると五〇―六〇匹の「地老鼠」が放たれ、敵の歩兵と、とりわけ騎兵に混乱を生じさせた。
1206年 薬箭 襄陽包囲戦で、中国人は女真族の侵略軍から都市を守っていた。守備隊は「薬箭」を使用しており、これは中国語の新しい言葉でほぼまちがいなく初期の型のロケットを刺していた。ロケットは、長さ約一.二メートルの竹の棒に鉄か鋼鉄製の矢じり(毒が塗りつけてあった)をとりつけたものだった。先端には、火薬をつめた厚紙の筒が竹にしばりつけてあった。中国の技術者はまもなく、小さな鉄のおもりを竹の棒の後端にとりつけると、ロケットの射程が伸びることに気づいた。さらに、筒に入った火薬の真ん中にくぼみをつけると、燃焼が均一になり信用性がずっと高まることもわかった。二〇ー三〇年のうちに技術者は、火薬筒の噴出口を狭くすると、ロケットの威力がいちじるしく向上することを知った。一二五〇年ころには、中国のロケット兵器は四五〇メートル以上飛ぶようになっていた。こうした兵器はすべて、「飛火薬」「逆風火薬」と呼ばれる特殊な火薬を使用した。この火薬混合物の混合比ははっきりとわかっていないが、十分な推進力を発生させるために硝石が六〇パーセントほどふくまれていたと思われる。
多発火箭 長方形の箱のなかには、ロケット矢を分けて固定する枠が入っていた。一本の導火線で、すべてのロケット矢に点火し発射した。
噴火器 この真の砲の書記の型は、火槍から発達した。全長が1.2メートル強で、火槍の炎とともに約100発の鉛小弾丸を発射した。
1350年頃 中国人は多段式ロケットを製造していた。本体の運搬ロケットがほとんど燃えつきると、一連の導火線が自動的に多数のロケットに点火し、焼夷矢が雲を突き抜け敵に向かって飛んでいった。こうした兵器はおもに海戦で使用された。はじめ低い弾道で海上を飛び、続く第二段階で小型のロケット矢が点火され、敵艦と乗組員に向かって発射された。
1150-1350年 つぎに中国人が開発したのは、火薬兵器の最たるもの――砲だった。ここでもやはりロケットと同様、呼称と専門用語にかんして深刻な問題が存在している。この問題は投石機や大砲を意味する「huo phao」の使い方というより、何をして真の砲と呼ぶかということから生じている。軍事技術の歴史家の多くは、「砲」という呼称は砲身の内径とほぼ同サイズの弾を発射する兵器に限定すべきだという点で見解が一致している。・・・砲に似た最初期の兵器はより的確に「噴火器」と呼ばれ、砲開発における重要な一歩だった。こうした兵器が真の砲でなかったのは、砲身の幅が非常に広く、たいてい小さな物質が大量につめこまれていたからだ。さらに、火薬の爆発力をすみやかに消散させて、封じこめにないように設計されていた。これらの兵器はおそらく、関連するふたつの段階をへて火槍から発達したと考えられる。火薬の硝石含有量は、焼夷剤ではなく弱い爆発物をつくれるくらいに増やされ、砲身はさまざまなものをつめられるように幅が広がった。この過程は既存の兵器から進化した。一部の火槍にはすでに磁器の破片や鉄片が入れられており、これは火薬の威力を増して物体をより早く押しだすことへの、小さくはあったが重要な一歩だった。したがって兵器の主たる目的は、火炎放射器から、物体を高速で撃ちだす発射装置へと変化した。この兵器の初期の型は青銅製で、全長が一.二メートル強だったと書かれている。「それには一〇〇個ほどの鉛弾がつめられている。はじめ弾倉は水平にしてもつが、垂直にすると鉛弾がすべて薬室のなかに落ち、発射される」
飛雲霹靂砲 (上記の)この種の兵器から、古くからある外殻が金属の爆弾を「噴火器」にするための、やはりほんの小さな一歩が踏みだされた。こうして「飛雲霹靂砲」が考案された。この兵器を描いた当時の中国の挿絵から明らかなのは、これが真の砲ではないことで、なぜなら弾丸が噴火器の内径をいっぱいにふさいでいなかったからだ(それでもこの爆弾は一種の「砲弾」で、敵の陣地に到達してはじめて爆発するよう設計されていた)。ほかの噴火器には、オオカミの糞、塩化アンモニウムヒ素、九本の矢(すべて先端に毒がしこんである)などがつめられた毒煙砲弾を発射するものもあった。
砲の考案 「噴火器」を砲に変えるには、少なくともふたつの大きな段階をへなければならなかった。まず、火薬の爆発力に耐えうる、砲をつくるのに適した素材を開発する必要があった。いちばん手近な素材のひとつは青銅〈青銅はのちにイスラム世界とヨーロッパで、最初期の砲のほとんどに使われた〉で、既存の技術で砲を鋳造することが可能だった。唯一の難点は、あまり高い圧力に耐えられないことだった。しかし中国が世界のほかの地域にまさる大きな利点がひとつあった――それは、ほぼ二〇〇〇年前から鋳鉄のつくり方を知っていたことだ。・・・第二段階は、適した設計を考案することだった。初期の砲は、ほとんどが弾を前から砲身にこめる前装式だった。・・・最初期の銃砲製造業者は当然ながら非常に慎重で、後部を肉厚にして砲を強化することにした。砲は花びんを横にしたような形になり、砲身の底部が広くなったような感じを与えた。だが実際はそうではなかった。砲身の容積は同じで、ひどく肉厚になったのは爆発が起こる部分だった。(中国人はこの部分を「火薬室(yao shin)」と呼んでいた)。
11世紀 真の砲 最初期の砲は一二八〇年代(ヨーロッパにはじめて登場するおよそ五〇年前)に中国で使用されていたと考えられていたが、過去二〇年のあいだに、歴史的調査によって中国人が少なくともヨーロッパより二〇〇年早く砲を使っていたことが明らかになった。
1274、1281年 火銃 モンゴル軍が一二七四年と一二八一年の日本への侵攻(元寇)で「火銃(huo hung)」と呼ばれる武器を使ったが、これが「噴火器」だったのか、あるいは真の砲だったのかはわかっていない。
1288年 小さな青銅製の手持ち型武器で、長さが約〇.三メートル、重さが三.六キロだ(木製の把手がついていたと考えられるが、なくなっている)。この砲は満州地方の黒竜江省で発見され、一二八〇年代末にこの地域であった大規模な戦闘で使用されたらしい。その戦闘についての記述には、夜襲に先立ってこのような武器を背負う「砲兵」が記録されている。・・・これらはとても簡単なつくりで、前装式の砲身、後部には点火孔があり、そこからゆっくり燃える導火線を差しこんで火薬に点火した。このような武器は、使うのが非常にむずかしかった。というのは、砲をもち、狙いをさだめ、点火するという動作すべてを同時に行わなければならなかったからだ。
1100ー1300年 虎蹲砲 長さが約〇.六メートル、重さが二二.五キロあった。大きな杭で固定し、二二五グラムの火薬を装填する必要があり、袋に入った一〇〇個の鉛「弾」を砲腔につめて発射した。これはボール爆弾の原始的形態だった。
同上 威遠砲 長さがほぼ〇.九メートル、重さが六八キロ以上あった。口径が五〇ミリ以上あり、はっきりとわかる花びん形をしていた。約一.三キロの砲弾を一個発射し、おもな改良点は火薬を雨から守るため、点火孔に可動式のふたをつけたことだった。
同上 迅雷砲 (威遠砲よりずっと小型で)重さがわずか七キロほどで、持ち運びができるように設計され、砲兵隊で使われた。
同上 飛隠砲 長さが約〇.三メートルの鉄製の砲身をもち、口径は七五ミリだった。火薬混合物、鉄くず、さまざまな有毒物質をつめた特製砲弾を発射した。砲と砲弾の導火線がつながっていて、後者は敵陣の頭上に到達したときに爆発するようにタイミングを合わせた。
同上 九牛甕瓶 (ーオウヘイ)もっとも大型で重い兵器。花びん形の砲はそれぞれ長さが約一.五メートル、口径がほぼ〇.三メートルで、重さ約一三.五キロの石の球形砲弾を一個発射した。(これが複数個、枠におさめられていた?)すべての方が一本の導火線でつながっており、これほど巨大な兵器の反動をどのように制御していたかははっきりとしていない。
同上 千子雷砲 最初に確認できる野砲の例。青銅製の砲で、長さが〇.六メートル足らず、口径は約一二五ミリだった。おそらく砲弾を一個発射し、戦場で移動できるように鉄輪で四輪馬車に固定されていたと思われる。薬室周辺の壺のような形状はなくなった。