でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

遊牧民から見た世界史

 宋代中国が、馬の購入に必死にならざるをえなかったことをメインテーマに、それがあたえる財政・経済上の大きな負担を、根本史料から分析・総合した畏友の米国人東洋史ポール・スミスは、その大著『天府に課税して』(ハーヴァード大学出版局、一九九二年)のなかで、十二世紀はじめに起きた小事件を例にひいている。
 北宋が、宿敵のキタイ遼帝国を、新興の女真族の金朝とむすんで打倒した直後のことである。金朝側の講和使節団は、一七騎で本国との連絡のため、河北を北へいそぎつつあった。それを途中で、北宋側の在地軍事指揮官が、二〇〇〇の歩兵をもって襲撃した。討ちとって、戦功しようとしたのである。
 ところが、武装していた一七騎は、ただちに左・中・右の三隊にみずからを小分けした。中央に七騎、左・右に五騎ずつである。手なれた戦闘隊形であった。このささやかな三隊は、駆けめぐり、射たて、敵陣を攪乱し、縦横に馬を走らせた。二〇〇〇人はさんざんに翻弄され、なすすべなく壊走した。一七騎は、一騎もそこなわれなかった。これは、北宋側の記録にあり実話である。

P.43

 余談だが、「城」というのも土の壁のことである。「土」で「成」るという字の形が示している。だから、漢文で「城」といっても、いわゆる日本の「しろ」ではない。キャスルやフォートではなく、ウォールなのである。つまり、長城とは、「長い土かべ」の意味である。

P.62

 アルタンは、みずからをクビライになぞらえ、「第三代ダライ・ラマ」をパクパになぞらえた。ダライ・ラマ(直訳すると、「海の高僧」。そのこころは、「四海にあまねき師僧」といったところか。「ダライ」、すなわち「海」「大海」をもって威令や恩徳の広大なことを表現するのは、モンゴル時代の一二四六年、第三代モンゴル皇帝グユクがローマ教皇インノケンティウス四世にあてた国書において、すでに見える)が、モンゴルの政治権力をつうじて、内陸アジア世界の宗教権威となる道が、ここにひらかれた。

P.71

 一般には、邪馬台国論争の「放射状説」の論者として知られることの多いかもしれない故榎一雄は、戦後日本の東洋学会をリードする旗頭のひとりで、洋の東西と古今に通じた稀有の博識多彩の人であった。氏の数多い業績のなかで、あるいは人の注意をあまり引くことのないかのように見える卓説がある。
 それは、中国において、十~十一世紀ころから急に哲学性・思弁性の色濃い「宋学」が興隆してくるが、その背景には海を通じたムスリムたちの中国来住の大波という時代状況があるのではないかという着想である。すくなくとも、その影響の有無をもうすこし考慮に入れて、「宋学」の興隆という歴史現象を眺め、検討してもよいのではないかという問いかけである。
 ある欧人学者の著作への書評のなかで、ふと漏らしたかのように述べられているこの考えは、ややもすれば狭い「中国学」(もしくは「漢学サイノロジー」)の枠組みのなかで自足しがちな従来の「通説」にたいし、まったく欠落している部分を見事に衝いている。すなわち、外からの刺激の可能性である。

P.385

 ようするに、どういおうが、西欧中心主義の世界史像では、十五・十六世紀よりまえについては、どうにも、まとまった姿を描くことができない。ところが、実際のユーラシア世界史では、随分と早くから相互にかかわりあい、少なくとも八・九世紀からは陸海が連動しあい、十三世紀にいたって完全に一体化への道をあゆんでいた。それを、世界の各地は孤立しあっていたかのようにいうのは、詭弁である。自分たちが、かかわらなかったり、わからなかったことがあれば、「なかった」とする精神は、ちょっと凄い。前近代において、じつは、あえて孤立をいうならば、ユーラシアの西の辺境で、小さく居すくんでいた西欧こそが、そうかもしれない。ヨーロッパといっても、東欧や地中海地域は、もともと、ひろやかに東方とむすばれている。

P.442

TwitterのTLより。

モンゴルに強い憧憬がある。気づいたら抱いてしまっていたその原風景がなんなのか長い間不明のままだったが、ひょっとすると『マルコ=ポーロ―世界的な大冒険家 (学研まんが伝記シリーズ)』かもしれないと、ふと思った。Amazonで価格を調べてみたら15万円とかだったのは余談である。

そういう立場からして、以下の二点で残念である。

  • 著者は批判のつもりかもしれないが、恨み節が強い
  • モンゴル帝国の従来像を払拭するために、あえて記述を控えたように見える

この二点がなければ、『銃・病原菌・鉄』と並ぶ刺激的な一冊として強く推せた。
残念ながら次点となるが、世界史が面白くなる本であることは間違いない。