でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

ジャガイモのきた道

縁は、TwitterのTL。

シェルパという言葉を初めて知ったのはたぶん間違いなく夢枕獏の小説からであり、その時は職業を表す言葉という印象を得た。本書では部族あるいは民族名を表すと記されており、印象が更新されたことは余談である。

学術の書というと、先達の偏見に由来する学問の停滞を表現する文章に出くわすことがある。データを無視し、権威を妄執する古来の在り方に、そうせざるを得なかったのであろうと察せられる論調で挑むものである。
これまで接してきたものとしては、医術、昆虫学、ガス灯などがあり、特定の学問や技術に顕現するものではないらしい。権威、利権、「常識」が理由として大きいという印象である。

文明は穀物でなくては育たない。そういう認識があるそうだ。イモごときでは無理ぷ、と。
本書ではそれを否定する材料として、ジャガイモの原産地である南米ペルーに育った文明を引き合いに出している。南米の文明というとトウモコロシが主食という印象があったが、西洋文明が侵略してきた頃の記録にジャガイモが主食であると読める文章が行く例も見受けられるという。さらに、ジャガイモを知った社会の人口増加率は上昇傾向となり、時には飢饉も救うという。
そのような記録やデータが示す事柄が日本において否定されてきた原因として、戦中戦後日本の悲しい食糧事情が大きく絡んでいるのではないかと著者は語る。そういわれてみれば、当時はイモばかりで飽きたと、実父から聞かされたことがある。特定世代のその恨みが芋類の立場を必要以上に貶めているのではないかというわけだ。ちなみに実父はジャガイモもサツマイモもヤツガシラもヤマイモも好きだった。
どうでもいいことだが、団塊の世代がセーラー服に対して否応なく抱かされてしまうアレ、を想起させられた。