でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『原発ジプシー』

十月十日(火) 体育の日。休み。小雨混じりの天候なので、敦賀市内に出るのを断念。一日中、宿でゴロゴロする。

 当日付けの『福井新聞』に、「大飯原発一号機/ピンホールと断定/試運転中の放射能漏れ」という見出しに、次のような記事が載っていた。
 試運転に入っていた関電大飯原子力発電所=1号機(出力百十七万五千キロワット)は八月初めから原因不明の故障でストップしたままとなっているが、同原発は九日「検査の結果、燃料集合体三体にピンホールが認められた」と発表した。試運転中のピンホールは全国の原発の中でも初めてのケース・・・・・・。
「またか・・・・・・」という気持でこの記事を読んだ。あまりにトラブルが多すぎる。当然、稼働率にも大きな影響を与えているだろう。手元のメモを繰ってみた。
<設備利用率> 七二%(七〇年度)→六〇%→五四%→四八%→四二%→五三%→四二%(七七年度)
 この数字を目で追いながら、ふと、科学技術庁にこの資料をもらいに行ったときのことを思い出した。「年々、原発は動かなくなっているんですねえ」と言った私に、担当官は鼻白んだ口調でこう言っていた。
「なにを言ってるんですか、ちょっとしたトラブルでも、ちゃんとストップする――これこそが原発の安全性を証明しているんですよ!」
 まったく意外な"新説"に、思わず「トラブルって、安全なことなんですねえ」と、なんとも間の抜けたことを口にしたことを、いまでも覚えている。

P.52

 稲葉さんのあとについて、五~六メートルも歩くと、廊下の右側が休憩室だった。八畳ほどのスペースに、ソファーが六、七脚。小さなロッカーと、「安全作業とは、人が作業しているのを、なにもせずに横で見ていること」と落書のある黒板。

P.80
 

一一月三〇日(木) 今日も雨。作業は、きのうと同様、三号機の「洗濯」作業。
 休憩室で、田口さんという初老(六二、三歳だろう)の労働者が、みんなに不満をもらしていた。どうやら不満の原因は、今日の朝、事務所内で行われた朝礼(といっても「安全標語」の唱和のみ)のあとで、田中さんら六、七人が事務所責任者の梅元さんから呼ばれたことにあるらしかった。
 田中さんたち(いずれも六〇~七〇歳台)は、そこで「三号機の定検もほぼ終わった。来年二月ごろまで仕事がなくなるので、休んでほしい」と言われたという。いわゆる"休職勧告"だ。
「いくらわしらが歳だゆうても、みなと同じように仕事をやってんのに・・・・・・。それでなくてもだよ、やれ定検が始まるってころには、会社のもんが一升ビンかかえて、わしらを仕事に引っ張り出すくせに・・・・・・。それが、いざ定検が終わっちゃうと、とたんにこれだからなあ・・・・・・」
 田口さんは、右手で首を切る仕草をして見せた。
 それを聞いていた一人の労働者が、田中さんを慰めるような口調で、こう言った。
「そうだなあ、あんたの言う通りだよ。せめて美浜にもう一つ原発がありゃあ、切れ間なく定検があるのになあ・・・・・・。なんたって、ここは不安定な職場だよ」
 原発労働者が――といっても美浜原発の場合、その大半は地元の農漁民だが――原発の「安定性」とか「エネルギー危機」といったものとはまったく無関係に、原発建設に「賛成」してしまう(しなければならない)背景の一端を、彼らの会話のなかに見る思いがした。

P.127

「定検なんて、人間サマのやることじゃないよなあ」
「ああ。いくら許容線量内だから安全だって言われても、これだけ(の放射線量を)毎日浴びてれば、おかしくなんねえ方がおかしいよ」
「うん・・・・・・まあ、すぐにおかしくならなくたって、子どもに遺伝して、とんでもねえのが出来ちゃうかもしれないし、な」
「ここで働いてる者の家族なんか、あと一〇年後、二〇年後には、とんでもねえことになってるかも・・・・・・」
「ああ、もしおれにそんな変な子が生まれたら・・・・・・」
「どうする?」
「おれ、たぶん、その子、殺しちゃうだろうな」
「そうか・・・・・・。でもさ、冗談じゃなくてだよ、もしかすると、変な子ができたら殺しちゃえって法律が出来るかもしれんぜ。だって、おれたちの子孫にそんなのがボンボンできちゃったら、国としても困っちゃうもの・・・・・・」
「うん・・・・・・」
「・・・・・・もし、そんな法律が今あったら、お前なんか、まっ先にヤラれてるだろうな」
「どうしてさ?」
「だって、お前、顔が悪いもん。アッハハ・・・・・・」
 この会話の主は、二人とも若い男だった。「IHI」(石川島播磨重工)のネームが入った濃紺の作業着姿。労働者風ではない。社員だろう。
 この種の話は、美浜原発で働いていたときにも、幾度となく耳にしていた。具体的な内容は様々だったが、共通点が二つだけあった。一つは、原発で働く労働者(社員も含めて)の多くが、放射能を恐ろしいと考え、「許容線量以下なら安全」という"教育"に少なからず疑問を抱くとともに、放射能の影響が自分なり子孫なりに出てくるだろうという強い不安を感じていること。二つには、この会話の最後には、決まって、「冗談」が出てくることだ。「・・・・・・もし、そうなりゃ、きっとカアチャン、我慢できなくなって浮気するぜ」、「・・・・・・そうなると、儲かるのは葬儀屋と坊主だよ」、「だって、お前、顔が悪いもん」等々・・・・・・。
 ホンネを吐露してしまったことへの照れかくし。どうしようもない不安をいくらかでも紛らわすために――「冗談」の理由づけはどのようにでもできる。しかし、一つだけ確かなことがある。放射能に対する不安を、そのまま正直に口にすることが出来ないような職場環境を「原発」が持っていることだ。

P.142

 昨日(四月四日)付けの新聞から――
「だからといって、何もがっくりくることはない。むしろ、これ(アメリカの原発事故<スリーマイル島原発事故:引用者注>)を、日本ではどんな小さな事故も起こさせないために、よい機会にしなければいかん。ああいう事故がないと進歩はないよ」(土光敏夫経団連会長談。『朝日新聞』)
「①日本の原発は炉型、機械、操作員などの面から米国のような事故が発生する恐れはないと信じている。②安全運転には念を入れるが、運転を停止して点検するより、運転しながら点検するほうが有効だ。(略)④国民には安全対策が十分おこなわれていることを十分知ってもらい、理解を求めるよう努力する」(平岩外四電気事業連合会会長談。『朝日新聞』)

P.287

 では、実際にその労働者となって原発内作業に従事することで、はたして私は何をそこから得ることができたのだろうか。
 <痛み>――その場に立たされた労働者でなくても絶対に知ることのできない<痛み>を、私は自らの肉体で体験することができたように思う。
 ここでいう<痛み>とはどのようなものなのか。本文中で幾度となく描写したように、管理区域内に一歩踏みこんだら最後、大小便はもちろん、水を飲むことや食事・喫煙、さらには汗を手でぬぐうことも、疲れたからといって床に座り込んだり壁に寄りかかることさえも"禁止"されている(放射能汚染をさせるため:引用者注)。つまり労働者は、自分が生命体であることの証しである「生理」すらも捨て去ることが強制されているのだった。

P.315

 原発労働者を取り巻く現状についてもう少し触れておきたい。
 炭鉱夫たちが「合理化」・「エネルギー革命」の名のもとに下請労働者として編成されていったのと同じように、現在、わが国の第一次産業全体が兼業化の波をかぶり、第二次産業の労働力供給源とさえなってしまっている。原発の下請労働者には地元の農民や漁民、そして私自身が体験したような、原発から原発へと渡り歩く"原発ジプシー"と呼ばれる流浪の民が多いということ考えても、社会の深層部で構造的な変化が起こっていることは明らかだ。社会的に生み出された下請労働力を積極的に取り込み、利用し終えると「棄民」化するという構図は、原発だけでなくコンビナート等もまた同様のものをもっている。だが、原発とコンビナートとは決定的な相違点が一つある。それは、原発が吐き出す「棄民」は、放射線をたっぷりと浴びた「被ばく者」となっていることだ。原発内の労働が、作業量ではなく、放射線を浴びることがノルマになっているという事実からすれば、労働者を「被ばく者」とすることは、むしろ前提条件でさえあるのだ。こうしてみてくると、原発には、他の産業とは比較にならぬほど露骨に資本や国家権力の「論理」が投影されているように私には思えてならない。
 今年(七九年)九月五日、全国九電力会社の労組など一二組合で組織している電力労連(同盟系)が札幌で定期大会を開いた。その際、冒頭のあいさつに立った橋本孝一郎会長は「増大する電力需要を将来にわたり賄っていくためには、原子力発電所を積極的に推進していく必要がある」と強調したという。
 この発言に、東電のある社員が語った「ラドウエスト作業(廃棄物処理)は、被ばく量が多いので請負化してほしい」(一九七六年六月六日に東電労組福島原子力支部が実施したアンケート調査より)という"意識"をオーバー・ラップさせるとき、下請労働者の存在は、もはや電力会社の社員(彼らも「労働者」なのだ)からも"切り捨て"られていることがわかる。

P.316

原子力ないし放射能という言葉を知ったのは、アトムからだったかゴジラからだったか。
モビルスーツにメンテナンスが必要だということを知ったのは小学生の頃だったろうか。メンテナンスというものがどのようなことか理解したのは中学生の頃だったろうか。
原子力発電が、蒸気機関であることを明確に理解したのはいつのことだったろうか。
原発のメンテナンスが、しかも炉心付近の作業が、人力で、驚くほどの薄着で行われていることは知らなかった。ハイテクでメカニカルなナニカでやっていると思っていた。
原発で、放射能汚染された消耗品を焼却処分していることも知らなかった。

単車でツーリングしたとき、美浜原発に行ったことがある。
一般道は原発で行き止まりになっていて、ゲートには非日本的なガードマンが立っていた。
その行きと帰りに見た近辺のあまりにも美しい海の色に、原子の光を想起させられたものだ。

工事現場でバイトしたことがある。
だから、本書に書かれているような労働者のありようがなんとなく想像できる。
経験した現場で吸い込んだのは木材の粉塵だったが、原発の二次系では黒い粉塵が発生するらしい。それがなんであるか明記されていない。

本書は、著者が三つの原発――美浜、福島、敦賀――で下請労働者として実際に現場に入りこんだ経験を著している。意図してのことか、危険度の順に渡り歩いたかたちとなる。
読んだ限りでは

敦賀>(越えられない壁)>福島>>>>美浜

なカンジ。三十年以上前からどうしようもないで在り続けていたとは。

第一刷発行は1979年10月26日。著者が原発労働者として作業に従事していたのはその前年末から半年ほど。その後のことが気になるのだが、ネットでは拾えなかった。