でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

親鸞聖人 七五〇回大遠忌お待ち受け法要

我が身は無信仰である。
次男を亡くした祖父が法要のため旦那寺に日参するようになり、弟の死に深い悔悟を抱いた父もそれに従った。かようなわけで幼少から仏事に触れる機会が多かったものの、どうもそれが逆縁となった向きがある。ラオウの薫陶を受けたためであろうか。

この日、このような我が身とは無縁の機会に身を置くことを選んだのは、ありていにいえば父の流儀に従ったに過ぎない。
宗教については、教えに対しては特に感慨はないが、組織や団体となって、それらを保守する立場になると大同小異に歪むという印象があり、このような機会についても同様の念を抱くを禁じ得ない。

いい加減、不惑を迎えようという身の上であれば、多少の我意は押して忍ぶべし。
なにか得ることもあるだろうと足を運び、五木寛之氏の講演で、得がたい機会であったことを思い知らされた次第である。

以下、講演の概要。
蟹工船』、ドストエフスキー、そして氏の著作は未読であり、聞いたままを要約したつもりであるが、不適切な表記があった場合は我が身の無知に由来するものとして、五木寛之氏の免責を申し上げる。

  • 餃子のこと
    会場への車中、餃子が根付いた理由を尋ねたが、どうもはっきりしない。調べたわけではないことを前置きして、ご自身の推理を語る。
    盛岡は冷麺が栄えている。朝鮮から帰国した方々が広めたとされている。
    餃子は中国東北部の食べもので、ロシアでは主に水餃子として食べる。おそらく満州から持ち来られたものではないか。
  • 執筆活動を停止して聴講生となったこと
    龍谷大学で聴講生となった折、とある教授から、ある学生のエピソードをうかがった。普段、あまり熱心とは見受けられなかったその学生だが、きちんと期限通りに論文を提出した。その論文タイトルは、教授の長い職歴の中でもたいへんユニークなもので『親鸞聖人と尺八』という。刮目して教授は、論文を精読した。
    不真面目と思えた学生が記した論文は、二章立てになっており、前半は親鸞聖人について詳しく丁寧に記されている。後半は尺八について、よく調べ上げた内容となっていた。
    結びにはたった一行、「以上の論を持って、親鸞聖人と尺八の来歴には何の関係もないことがわかった」とあった。

以上、つかみはおっけ~系。
以下、本旨。

  • なぜ、今、親鸞
    • 私的な理由
      師範学校を卒業し、教員となった両親の子として生まれた。
      当時、世界恐慌後の日本には、満州、朝鮮、ブラジルなど、おちこぼれるようにしてそれら海外の国々へ転出していく人々がいた。両親も、おちこぼれるようにして朝鮮へ渡った。
      敗戦を迎えたのは平壌にて。軍の高官や情報を早々と掴んだ人々が本土への帰還を急ぐなか、平成通りにふるまうようにと伝えるラジオの広報を信じ、ある日、ソビエト軍を迎えた。なにも知らない身の上では、ただ茫然とするしかない出来事であった。ソビエト軍の第一波としてやってきた彼らは粗暴であり、様々なトラブルがあった。毎日早朝三時ごろまで励み高等学校の師範となった父親(「出世の階段を三段くらい上った」とは氏の談)は、敗戦で酒浸りになり、中学生だった氏は、父親と弟妹を食べさせるために、非合法なことにも手を染め、食いぶちを得た。
      ソビエト軍兵士は、日本人のコミュニティに対し、女を差し出せとしばしば要求してきた。軍用車両に機関銃を搭載して、そんな要求を突きつけたという。女を出すか、皆殺しにされたいか、選べという状況だった。そのようなとき、コミュニティの相談役たちは、無理強いして女性を差し出した。ボロボロにされて帰ってきた方もいれば、帰ってこなかった方もいる。
      相談役という立場は選ばれてなったわけではなく、せざるを得ず立った立場であり、このような決断を積極的にせざるを得ないという暗黙裏の立場にすぎなかった。このような決断を無言で認めたコミュニティの人々は、沈黙の肯定という意味で同罪である。氏は、沈黙の肯定をした多数の一人として、以後、自責の念に絶えなかったという。
      帰国した後日、高校に通い、大学に通い、社会人として東京で仕事を始めた。楽しいこともあったが、そんなときにも心から楽しめるということはなかったのは、過去の自責の念を受け入れがたく持ち続けたからである。
      心はれぬ日々が続き、東京での仕事を辞め、金沢に移った。金沢で暁烏敏文庫に通うようになり、蓮如上人を知り、親鸞聖人を知るにいたった。(「蓮如上人の開いた広い道に入り、親鸞聖人の深い森で迷っている」という印象的な言葉を用いられた)
      浄土宗は、優雅な平安期の末期、自殺者が多く出た時代に生まれた。法然の開いた易しい教えを、親鸞が深く追求し、蓮如が広めた。
      その教えに触れた時、晴れぬ自責の念をようやく受け入れられるようになった。
    • 時代的な理由
      • 蟹工船
        つい数年前、『蟹工船』が再評価された。
        蟹工船』が発表された時代は、世界恐慌の直後であり、それが再評価された現代もまた不況の中にある。
      • ドストエフスキー
        ドストエフスキーはロシアの大家であるが、長らく歴史に埋もれていた。『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などが代表作である。
        過去、殺人には理由があった。現在、理由のない殺人が横行している。どのような「心の闇」が、理由のない殺人を行わせているのか。ドストエフスキーがテーマに選んだものは、現代のこの側面を照射するものである。『蟹工船』同様、流行は世相を反映するという一つの証左であろう。
      • 五木寛之氏の生い立ちと半生、蓮如に出会うまで
        暁烏 敏(あけがらす はや)は、明治期における真言宗大谷派の僧侶である。加賀の三羽烏の一人として数え上げられた人物であり、大変な読書家であった。五万冊といわれる蔵書を金沢大学に寄贈した。世に『歎異抄』を知らしめた方である。(上記、「私的な理由」と重複)
      • 自殺の時代
        日本における年間自殺者数は増加の一途をたどっている。平成10年に年間3万人を突破し、以後は3万人以上の数字を維持し続けている。
        アメリカ軍が十数年におけるベトナム戦争で出した戦死者は7万人弱であった。戦争の十数年を、平時のわずか二年が比肩していることになる。
        平和とはなんであろうか。現代には、自殺者を大量にだしてしまう「時代の闇」というものがある。
      • 親鸞の時代もまた自殺の時代であった
        個人が抱える「心の闇」、社会が「抱える闇」。
        闇を照らす光が必要である。平安の時代には、法然、そして親鸞が光の一つとなった。

    以上、他に立松和平氏を悼む言葉もあったが割愛した。
    巧みな文章を書く方が話上手とは限らないものだが、大変話の上手な方であり、職業的な意味で、言行一致の言葉遣いをされる方である。機会があれば、一度、講演を拝聴することをお薦めしたい。
    氏の著作に触れてみたくもなった。