読物 『キマイラ・吼シリーズ』
この物語は、10巻までは面白い。
昭和という時代があった。
年に何冊も『キマイラ』が出る。
『D』が出る。
『グイン』が出る。
好きな作品が、滞ることなく供給されていた時代。
過ぎ去りし上代、あるいは神代の時代のことだったのかもしれない。
夢枕獏は好きな作家ではなかった。そう思っていた。
だが、新作が出てその気になれば読んだし、特に読んだものを嫌うということもなかったからには、作家を嫌っているというわけではなさそうである。前言撤回、『キマイラ・シリーズ』といいなおそう。
『キマイラ・シリーズ』は好きな作品ではなかった。しかし、嫌いでもなかった。
これについて特に深く考えることもなく、初読の頃より二十年を過ぎたが、今回、幾度目かの再読するうちに得た感慨を分析するうちに、その理由をなんとなく察した。
たとえばアニメ版『巨人の星』。
たとえばアニメ版『ドラゴンボール』。
前回のおさらいを15分やる。そういうことが嫌いなのだ。
つまり、
さわ
さわ
とか書きながら前回のおさらいを書き連ねていくそのやり方が嫌いだったのだ。
読み返してみれば面白く、おさらいもそれほど気にはならない。贅沢に紙面を消費するそのやり方が、一冊105円というコストに見合っているからかもしれない。
しばらく手を止めていたのは、新巻が出るたびに全部読みなおす羽目になるからであった。大雑把に覚えていても、新巻とつながらない部分が出てくることがある。そうなると全部読まねばならなくなる。それほど耽溺してはいない。だから、溜めていた。
10巻か11巻までは読んだと思っていた。玄造の過去話も知っているようだから、もう少しは読み進めていたのかもしれない。ともかく、既知の部分を読み進めている間は、こりゃすげえ、なんで俺はこんなおもしろいもんをきらいだとぬかしていたんだろう、そんなふうに感じさせられたものである。
ところが、だ。
過去話マンセーな風潮は、いつから始まったのだろうか。
既知の上では『ベルセルク』の『黄金時代』編あたりがそれくさい。ともかく、かつては数頁程度で語られていた過去のエピソードが、いつしか本編を侵食し、台無しにしてしまうケースが増えた。例えば『ガサラキ』がそうだ。
『ベルセルク』は逆のケースで、『黄金時代』以降『ロストチルドレン』までは神だった。以後はセケンに半端に迎合したため台無しになっているが、それは別のこと。
あと5巻か10巻かで終わる。といった次巻で過去話が数巻続くといってのける。
5年から10年で終わるといった次の次あたりでライフワークにするという。
そんな奴がほざく言葉など信用してやるもんか。
コントロールされていない物語を面白いと感じることは稀である。
それを是とし、むしろ喜ばしいことのように報告する作家がいるが、それは自己の未熟さを誇っているということなのだろうか。
この物語、コントロール不能に陥っているとまではいわないが、迷走の度が過ぎているとは、いわざるを得ない。