でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

光圀伝

 見出された義を信ずることは、ときとして信仰にも似た心持ちとなる。
 信義も信仰も、様々な妨げを乗り越え、見失ってはまた新たに見出すということを延々と繰り返さねばならないからであろう。ただし信義が信仰と違うのは、論拠あってこその信義であり、信仰は論を超越した愛慕の念に等しいという点であろう。いつぞや、余が昵懇にしている日乗上人が、その愛慕の念のありがたさを、こんなふうに語ったことがある。
 曰く、信仰を失うのは辛い。それは、あたかも突如として敬慕する父母から、実のところお前と我らとの間に血のつながりはなく、ゆえに情愛など一片も持ったためしがない、と告げられるがごときものであるのだと。まことに、母思いの日乗上人らしい喩えだ。

上巻 P.444

冲方丁という作家に触れたのは『マルドゥック・スクランブル』で、『マルドゥック・ヴェロシティ』を経て『ばいばい、アース』に至り離れた。『ばいばい、アース』はあまりにも少年ジャンプしすぎていて、これが若さゆえのことで現在は『マルドゥック』シリーズの著者であることを己に強く訴えかけても、一度得てしまった忌避感は拭い難く、以後、接触を避けてきた。ファフナーは見たけれども、エヴァクローンの勢い衰えぬ時勢でもありまた特に響くものもなかったことから通り過ぎて終わった。

そんな個人的背景を負って十年余を経ての再会となる。
読みだしは、ちょっと苦労してしまった。これは完全に個人的な問題で、文章に隆慶一郎味や池波正太郎味を見出してしまったような錯覚にとらわれ、身の内から邪魔される感覚にとらわれてしまった。いずれも好きな作家であるが、読みすぎたのか、飽きて遠ざかっている経緯がある。
上巻の中盤に至る頃には先が気になって仕方がなくなり、漫遊記の御老公としてしか知らない水戸光圀を、歴史上の人物として認識するよい機会となった。娯楽的時代小説にお約束の萌えポイントもあり、その辺の醍醐味を求める士にも強くおススメできる。

冒頭に引用した信義と信仰について、真偽についてはさておき、信仰については作品に対して適用すると肯定感が強い。連載漫画について特に。もう何年も前に決定的な決別をある作品から告げられて、以後、漫画に深く耽溺することはできなくなってしまったからだ。『ベルセルク』っていうんだけどね。

『黄門地獄変』は思っていたよりもきちんと下敷きをしいて描かれていたのかもしれないなあと思ったり思わなかったりしたことは余談である。