でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『一九八四年』

 つまるところ、記録局にしたところで真理省の一部局に過ぎず、真理省の主たる仕事は過去を再構成することではなく、オセアニアの市民に新聞、映画、教科書、テレスクリーン番組、劇、小説を提供すること、あらゆる種類の情報、教え、娯楽を、銅像からスローガンにいたるまで、抒情詩から生物学の論文まで、子ども用の綴り方教本からニュースピーク辞典まで、を提供することだった。そして真理省はこうした多種多様な党の要求に応えるばかりでなく、プロレタリアートのためのもっと下等な要求に応えるものを同じように提供しなくてはならなかった。別個の部局が大挙して、それぞれプロレタリア用の文学、音楽、劇、そして娯楽一般を担当していた。ここでは、スポーツと犯罪と星占いくらいっしか掲載していないくず新聞、扇情的な安っぽい立ち読み小説、セックス描写だらけの映画、韻文作成器と呼ばれる特殊な万華鏡を用いたまったく機械的な方法で作られるセンチメンタルな歌などが生み出されていた。ニュースピークで<ポルノ課>と呼ばれる独立した担当部署すら存在し、露骨極まるポルノグラフィの製作に勤しんでいた。それは封印した小包として発送され、この作業に従事しているもの以外、党員といえども誰ひとり見ることが許されないのだった。

P.68

本書が描写するように「全体主義恐るべし」とされる一方で、古き良きエスエフやそのテイストを意識的にとりいれた作品なんかでは、たぶん著者は意図せぬままに善玉の属する政体を全体主義的に扱ってたりする。十分に発達した民主主義の上で実現したご都合主義的社会主義社会という風に見える。

一般に開示される情報に偏向があるようだと明らかにされつつある昨今、一見して全体主義的でなくとも、全体主義的にふるまってしまうのは国家というものの基本的なありようなのだと思うを禁じ得ない。

主義やシステムではなく、個人にこそ問われるべきものがあるということなのだろう。