でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『疵―花形敬とその時代』

 敗戦の直前に入学した七期生の恩地日出夫東宝映画監督)は、千歳ペンクラブの機関誌『きろく』第五号(昭和二十五年十二月二十二日発行)に、「疑問符」と題して、次のような一文を寄せている。
<アヴァン・ゲールの世代は、規制の社会秩序から割り出して、アプレ・ゲールの世代が自らの秩序(これは一つの社会秩序として確立されたものと見ることはできないが、ある一つのぼんやりとした、少なくともアプレ・ゲールの世代の間にのみ通用する概念としてはたしかに存在している)に従って行動するのに対して、それを常人の行動として理解できず、結局、”いまの若いものの気持はわからん。まったく乱れた世の中になったものだ”という言葉に要約してしまうのである。
 その結果が、このごろ天野文相あたりから持ち出されている、修身科の復活、教育勅語の代用品というような問題となってあらわれてきているのであろう。だが、これは、あまりにも大人の一人合点に過ぎはしないか。我々の世代から見るとき、実に笑止千万なのである。このことは、我々の世代を生み出した教育を振り返って見るとき、容易に理解されるに違いない。
 我々の世代といえども、アヴァンの人々と同じ人間であり、決して特殊な存在ではない。ただ異なっているのは、その世代を生み出した社会なのである。
 そして、それは、我々がよき社会人として完成されるべく受けた教育が、あの戦時中の”かくあるべし”、”かくあるべからず”式の天降り教育であり、それが八月十五日を期して、いちどきに逆転してしまったという事実によって裏付けられるであろう。
 比喩的にいえば、昨日までミソ汁とタクワンを唯一の食物であるとして、我々に食べることをしいていた教師というコックが、八月十五日からは一転して、昨日までのミソ汁には毒が入っていたから、今日からはこのデモクラシーという西洋料理を食べなさい、といって、食卓にそれを出してきたようなものである。
 これは教育の背景となる思想が、軍国主義からデモクラシーへと変っただけで、いぜんとして、天降り式の”かくあるべし”、”かくあるべからず”の教育の再現に他ならない。昨日まで毒物をくわされて来たわれわれには、とてもコックの言を信用する気にはなれないのである。
 生まれ落ちてから十数年間、心の中につくり上げられて来た価値基準が、すべていとも簡単に崩されてしまったいま、我々の世代の拠りどころとして求められるのは、現在という瞬間と、おのれの生命と肉体、それだけしかない。
 自己の知性と感性、そして肉体のすべてによって、つかみとって行く以外には、我々の”かくある”を認識するための方法は見出し得ないのである>
 敗戦から五年四ヶ月を経て、十七歳の少年によって書かれたこの文章は、いささかの気負いの中に、アプレと呼ばれた世代が教師、ひいては国家社会に対して抱く不信感を、強くにじませている。

P.61

 花形は暴力の世界に身を置いてからも、ステゴロ(素手による喧嘩)をかたくななまでに守り、喧嘩に刃物を用いたためしはただの一度もなかった。その彼が例外的に生身を切り裂いたのは、自身に対してであった。
 人はそれぞれに生まれつきの基本的な性格を与えられている。これをたとえれば、一人一人が自分の内側に、めいめいの動物を飼っているようなものであろう。ある者は勤勉なリスを、またある者は狡猾な狐を、別のある者は臆病な羊を――。
 その動物を飼い慣らしていくのが、人間にとっての成長ということになるのであろう。
 花形が内側に飼っていたのは一頭の虎であった。そして、その虎は、戦時中という時代環境の中で、年ごとに猛々しさを増していく。
「強く、強く、という時代だったから――」
 息子を失った美以の嘆きは、強くあれ、と教えた時代に向けられるのである。
 それでも戦時中には、国家が設定した方向しか許さない拘束力が、社会全体をしばり上げていた。ところが、敗戦でその枠組みが壊れ、人びとは一斉に解き放たれた。そのとき、飼い慣らされるべき時期を迎えていた花形の内なる虎は、彼ごと野に放たれたのである。
 人はだれも思春期に、前触れもなく内側から突き上げてくる衝動を抑えかねた経験を持つ。そこで思うのだが、われとわが顔面を切り裂いた花形の刃は、いつの間にか強大に育ち上がり、暴力を指向して猛り狂う、内なる虎に向けられていたのではなかったか――。

P.77

 墨を塗られて虫食い状態になった教科書は、「戦後」を象徴するかのようである。そこでは、過去が否定されただけで、新しい指導理念はまったく展望されていなかった。
 本村孝昭は、昭和二十一年一月八日付を以て退職、のちに文化服装学院の舎監におさまった。
 一期生の平岩政昭(前出)はいう。
「本伝さんから教わったので、忘れられない西郷南州の言葉があるんだ。他に図らずして決すべきこと三つあり。一つ、わが生命を絶つとき、一つ、わが職を辞するとき、一つ、わが妻を切るとき。
 三つ目は、ちょっとうろおぼえなんだが、ぼくたちは十五、六歳のころ、朝な夕なにそれをいわれていた。ちょっといい言葉だろう。
 本伝さんはその言葉に従って、自ら職を辞したのだろうけれど、洋裁学校の舎監なんかにおさまって、千歳の同窓会に顔出したりしていた。それはないと思うんだ。少なくとも、彼の口車に乗って、戦争で死んだ生徒がいるんだから」

P.124

 男ばかり三人兄弟の家庭に育ち、小学校では四年から男女別々のクラスに分けられ、当時としては当たり前の話だが男ばかりの中学校へ進んだ私にとって、貴賤、美醜を問わず、女学生というだけで高嶺の花であった。私たちの世代に少なくないセーラー服願望は、思春期あたりにあまりにも異性から隔離されすぎていたところに根があるように思う。

P.146

 これまで都内の盛り場の「戦後」について断片的に書かれたものは数多くあるが、渉猟した資料の豊富さもさることながら、あの時代を見据える視点の確かさにおいて群を抜いていたのが、「東京焼け跡ヤミ市を記録する会」により『創』の五十二年一月号から十二月号にかけて連載された「東京闇市興亡史」(以下『興亡史』と略)である。
 (中略)
 「興亡史」は、見渡す限りの瓦礫と廃墟のなかで最初に露店を再開した関東尾津組の新聞広告を紹介している。
<転換工場並びに企業家に急告! 平和産業への転換は勿論、その出来上り製品は当方自発の”適正価格”で大量引受けに応ず、希望者は見本及び工場原価見積書を持参至急来訪あれ 淀橋区画筈一の八五四(瓜生邸跡) 新宿マーケット 関東尾津組>
 この広告は、なんと、終戦から三日後の昭和二十年八月十八日に、都内で発行されている主要紙に掲載されたものであるという。起こした行動の素早さに驚かされる。当時の新聞は、一般広告はゼロに近かったため、関東尾津組の広告はひときわ目立った。

P.164

 『渋谷道玄坂』(弥生書房)などの著書があり、戦前の町並を店名の一つ一つに至るまでそらんじている藤田佳世は、それこそ渋谷の生き字引である。

P.172

 (藤田佳世の)店とは目と鼻の先の渋谷東宝の内部は、焼けたままのがらん洞で、顔のむくんだ浮浪者の溜まり場になっていた。秋も深くなると、その前で焚き火が始まり、いぶる生木に顔をそむけるアイシャドウのきつい街娼たちの姿が、芥川龍之介の「羅生門」に描かれている光景を思い出させるのであった。
 渋谷がまだそういう状態にあったとき、中国人、台湾人、朝鮮人のいわゆる第三国人が駅前の焼野原のかなりの部分を占拠して、米などの食料品やゴム製品など、禁制品を堂々と商って、日本人の露天商を上回る利益を上げていた。彼らには警察力が及ばず、かえって渋谷署の署長や特高主任を呼び出し、先勝国民としての権利を主張して十数時間にわたって監禁するという事件を起こした。

P.175

 二月二日、石川は看守に「盗汗で濡れた蒲団を干したい」と願い出て、屋上に付き添われて上がったとたん、駆け出して行ってフェンス越しに身を躍らせた。彼の三十一年の生涯は十五メートル下のコンクリートに叩きつけられて終わった。独房に残されていた遺書の最後は「大笑い三十余年のバカ騒ぎ」の句で結んであった。
 それより、石川が二十九年七月三十日の日付で色紙に書いた次の文句の方が、ヤクザのはかなさを読む人に訴えかける。
 寂寥なるかな天涯の孤客
 誰れと共にか事実を語らんや
 誰れにか告げん仁侠の道
 男子我れは義のみに生きん

 石川力夫という見知らぬ人物の描いた軌跡をはしょりながらたどってみて、あわれな生涯にいくばくか同情するが、彼に心惹かれるものは何一つない。
 私の狭い範囲の経験では、仁侠道というものがどうにも信じられないのだが、いちおうこの世の中に一つの徳目としてあるとしよう。あるとして、東映のヤクザ映画に出てくる正義の側の侠客の場合のように、実在するだれかによって具現されているのかどうか。寡聞にして、「いいヤクザ」というのを知らない。
 その昔、稼業人であった一人にいわせると、利害関係により力関係に応じ、はたまたそのときどきの情況を判断して、「いいヤクザ」にも「悪いヤクザ」にもなるのがヤクザなのだという。

P.215

 彼らが出て来てタクシーに乗り込むのを見届けて、田中と古田は別のタクシーでその後をつけた。神宮外苑の暗がりにさしかかったところで前を行くタクシーを追い越して停車させ、兄弟を引きずり下ろすと、田中はシー坊の腹部を上に向けた出刃包丁の切っ先で、ヘソの下から胃の上あたりまで一気に斬り上げた。
「人間というのは必死になると凄い。速いのなんのって。おれ、かけっこじゃ負けない方だけど、シー坊の野郎、追いつかせないで交番に飛び込んだ」
 と田中は、自分のしたことより、怪我させた相手が懸命に逃げるさまを、さも意味のある発見であるかのように話す。

P.272

「われわれクラスで花形さんに殴られなかった人間は一人もいない。しかし、二度殴られたれたのも、一人もいないはずです。おれだけが一度も殴られなかった。初めから絶対服従でしたから」

P.276

 安藤は次のように述懐する。
「ハジキで撃たれたんだから、ふつうだったら病院のベッドから動けないでしょう。それを花形は、夜っぴて相手を探し歩いて、酒くらって、女を抱いた。ほんとにたまんないよ。化け物だね。あれは。
 おれがいくら訊いても、なんにもいわない。そのうち、やつのズボンの裾から撃たれた弾がぽろっと落ちてきた。考えられないでしょう。おれもいまだにわけがわからない。どういうあんばいになっていたのかね」

P.281

 しかし、組長を初め、幹部の目星いあたりをあらかた引っ張られた安藤組は、にわかに弱体化して、それまで彼らの天下であった渋谷に一種の空白状態が生じた。逼塞していた地元勢のうち、相対的に力においてまさる武田組が、ここを先途と失地回復に乗り出し、同時に、よその土地に根を張る暴力団のいくつかが、渋谷への勢力拡大を狙って、じわじわと浸透を始める。
 前掲の記事は、そうした渋谷における暴力地図の急激な変化に着目したもので、時宜を得てはいるのだが、このシマをうかがう外部勢力として名を挙げられた団体は、実際の姿にそぐわない。その最たるものは稲川一家で、これに次ぐのが町井一家であった。

P.316

 焼け跡は、腕一本の世界であった。だが、そこにビルが立ち並んだとき、暴力団の世界も力学がかわっていたのである。
 稲川一家は、世界の黒幕、児玉誉士夫と結びついていらい、急速に力をつけたとされている。東声会と名称を改める町井一家も、これにならい、やがて、日韓の裏側の橋渡しへと進む。
 政界の暗黒部分と結ぶか、あるいは財界のはらわたにくらいつくか――遅ればせながら安藤組が組織の拡大のために考えた筋道は、それであった。つまりは、愚連隊からの脱皮であり、本格的ヤクザへの転身である。
 しかし、「経営マインド」を決定的に欠いた花形は、そうした方向につゆ関心を示さず、あくまでも素手一本の喧嘩に男の誇りを貫こうとした。

P.324

花形敬。
この名を知ったのは、幕末から昭和という漠然とした時代に対する興味と、格闘技に対する興味と、いずれかの嗜好を満たすためにWebを徘徊している時のことだった。
板垣恵介の作品に登場する、花山薫のモデルだという。

本作品のタイトルが示すように、花形敬と、その生きた時代が主題となるが、後者の比重が高い。花形敬という人物には、引用した例のように、同時代の稼業人が語るものすごい逸話があり、生きていたら暴力地図は書き換わっていただろうというような伝説がある。だがしかし、それらは、同じ時代を生きて、彼の地に行くことがなかった人々――本書中には、花形と同期であったりというような人々、社会的成功者として知られる人々のインタビューが掲載されている――と、行ってしまった人々との対照、不明瞭で歪んだ一線の彼我を対照するために引用されているという印象が強い。

先に読んだ『東京アンダーワールド』とクロスオーバーするが、華やかなイメージのあった同書と、暗く、裏ぶれた印象を抱かされた本書とは表裏をなしているようである。
許永中 日本の闇を背負い続けた男』にも登場する名があることを見れば、民族史的「戦後」は、国際社会史的「戦後」よりも長く続いたということになろう。

本書中で引用された「東京闇市興亡史」、『渋谷道玄坂』(弥生書房)、平岡正明闇市水滸伝』(第三文明社)など興味をひかれた文書があるが、いずれも絶版で、地元の図書館にもおいていないのであった。