でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読書 『真説宮本武蔵』

大山倍達正伝』に記述があり、司馬遼太郎宮本武蔵を書いていたことを知る。
本書は短編集で、宮本武蔵千葉周作、森要蔵、栃尾源左衛門、ユイズという名を残しているらしいバスク人、が扱われている。
武蔵、千葉以外は、名すら知らなかった。

なるほど、大山倍達は、武蔵に大いに学んだのだろう。そんな風に思われる。
表立っては吉川の武蔵像を行き、実際のところは司馬の武蔵像を行った。そんな印象を受ける。

宮本武蔵という人物については諸説あれど、いずれも豪力について触れられていることが共通している。粗野粗暴であったが、沢庵和尚によって調伏されたという像が一般的であろうか。司馬の武蔵像は、吉川英治が語る武蔵像よりもはるかに智略に富み、二十代から書画などの手慰みを覚えまた自ずから禅へ傾倒していったことが語られ、武一辺倒というものではない。
島原ではロクな働きもできず、城壁を登ろうとして落石に打ち落とされるなど、マンガみたいなやられっぷりを示していたりもする。そんな例が示すように、剣による立身はついに適わず、晩年は逼窮していたというがさにあらず、彼が望んだほどのものではないが後援者に困ったことはないらしく、書画や彫刻などの手慰みも手伝って、金には一生不自由せずにいられたらしい。
剣を手にすることがなかったならば、万能の天才として後世に名を残した人物かもしれない。千葉周作も同様の性らしく、もう少し遅れて生まれていれば学者になったであろうと司馬はいう。

司馬の筆致は実に巧みで、遅れて時代小説に取り組み始めた我が身を誘ってくれた隆、池波などと似た風合いがあり、いっそう過激である。読みながら、物語とは無縁のところでスゲー嬉しくさせられてしまう。この感覚は実に稀である。

とはいえ、あまり熱心に著作をあたっていないことからすると、どうにも縁が薄いらしい。
巻末に司馬の著作リストが掲載されているが、その量が膨大すぎて笑わずにはいられなかったことは余談である。