でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『宮本武蔵』

 勝ちと錯覚させたのは、武蔵の誘いであった。武蔵はつねに敵を誘う。

P.209より

司馬遼太郎の。
先に読んだ『真説~』をより詳細にした内容といって差し支えない。本書と比した場合、『真説~』がやや斜めに見ている印象がある。いずれにしても英雄伝ではない。
本書が伝えるものにどれだけの創作が含まれているかは知るべくもないが、等身大の人物像として受け止めることは難しくない。

武蔵がなにより重視したのは「見切り」であり、後の先であるという。術レベルではなく、略レベルでそれを実践していたともいう。
武術というものは基本的に待つものである。例外は、実力差が介在する場合であるが、この場合は彼をより我の制御下におくことができ、つまりは誘うこともより容易となる。後の先の進化形、これを先先の先、または気の先という。

「見切り」について、巌流島の下りがその骨頂で、武蔵は鉢巻を斬られたが、負傷したかどうかは定かではなかった。よく知られている逸話のとおり、決闘後、さっさと引き上げてしまい、そのまま旅に出てしまったからである。後に、とある家中のKYな臣がそれをただし、武蔵の怒りを招いたという。
武蔵の頭には幼時に患った腫瘍の後遺症があり、頭頂部が禿げていたというのである。総髪で隠していたそれは恥部という認識であったのだろう、そのことを明かしながら、「傷があるか、否や?」と髪をかきわけながら詰め寄ったというのである。
斬られぬことに矜持をいだいていたからこその怒りでもあろうが、蛮勇を示すために崖下の切りそいだ竹薮に飛び降り、竹で足を突き抜かれながら、こともなげに馬糞をつめて行軍を続けたという逸話と並べてみれば、やはり並みの人間ではなかったのだろうと感じ入るばかりである。

作中に語られる柳生兵庫助の武蔵評は、現在ではよく知られるものであろう。二天一流が後世に残らなかった理由としても知られるものである。
それを引用して著者は、「武蔵の兵法には欠陥があったとしか思えず、それを武蔵という個の、桁外れの気質が埋めていたとしか思えない」というようなことを述べている。
これもまた、本書着手の動機となった『大山倍達正伝』と対照するに、むべなるかなと思わせるものである。