でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『ビッグバン宇宙論』

広大な聖堂の中に三粒の砂を置けば、大聖堂の砂粒の密度は、宇宙空間の密度よりも高いことになる。

――ジェイムズ・ジーンズ

宇宙を理解しようと努めることは、人生を滑稽芝居よりもいくらかましなものにし、悲劇がもつ美質のいくばくかをつけ加える数少ない行為のひとつである。

――スティーヴン・ワインバーグ

人は科学において、それまでは誰も知らなかったことを誰にでもわかるように語ろうとする。しかし詩においては、まったく逆のことが行われる。

宇宙についてもっとも理解しがたいのは、宇宙が理解可能だということだ。

序文より

科学は、神話とともに、そして神話への批判とともに始まらざるをえない。

私たちに分別と理性と知性を与えた神が、私たちがその能力を使わないでいることを意図していたと信じるいわれはないと思うのです。

地球上での生活には金がかかるかもしれないが、太陽のまわりを年に一周する旅が無料でついてくる。

――作者不明

物理学は宗教ではない。もし宗教だったなら、資金集めにこれほど苦労はしなかったろう。

――レオン・レーダーマン

第Ⅰ章 はじめに神は・・・・・・序文より

 ――アルベルト・アインシュタインは常識というものを厳しく批判し、「十八歳までに身につけた偏見の寄せ集め」だと言った。

上巻 P.34

 (アインシュタイン相対性理論は)今日までに人間の知力が成し遂げたもっとも偉大な総合的業績であろう。

――パートランド・ラッセ

 (アインシュタイン相対性理論によって、宇宙に対する人間の思索は新しい段階に到達した)それはあたかも、われわれを真理から隔てていた壁が崩れ落ちたかのようである。知識を追い求める眼の前に、かつて誰も予想だにしなかたちょうな、広大かつ深遠な領域が開かれたのだ。いまやわれわれは、あらゆる物理現象の基礎にある首尾一貫した設計図の理解に向けて、大きな一歩を踏み出した。

――ヘルマン・ヴァイル

感じることはできても表現することはできない真理を、暗闇の中で懸命に探す年月。強烈な願望と、交互に訪れる自信と不安。そして、ついにそこから脱却して光の中に出る――それがどういうことかを理解できるのは、そういう経験をしたことのある者だけである。

光速よりも速く進むことはできないし、できたらいいとも思えない。だって帽子が吹き飛ばされてばかりいるからね。


第Ⅱ章 宇宙の理論 序文より

既知のことがらは有限であり、未知のことがらは無限にある。知識に関して言えば、われわれは説明不能という大海原に浮かぶ小さな孤島にいるようなものだ。あらゆる世代においてわれわれがなすべきは、埋め立て地を少しでも広げることである。

――T・H・ハクスリー

宇宙について無知であればあるほど、宇宙を説明するのは簡単だ。

――レオン・ブランシュヴィク

不十分なデータを使ったために生じた誤りは、まったくデータを使わないために生じた誤りほど大きくはない。

理論は脆くも崩れ去るが、優れた観測はけっして色褪せない。

――ハーロウ・シャプリー

まずは事実をつかむことだ。あとは都合に応じてそれを曲解すればいい。

天は、永遠に褪せることなき美を示しつつ汝らの頭上をめぐるというのに、汝らは地面ばかりを見ている。

――ダンテ

第Ⅲ章 大論争 序文より

 ――「文明に対する最高の定義は、文明人は万人にとっての最善をなす、というものだ。それに対して野蛮人は、己ひとりにとっての最善をなす。文明とは、人間の身勝手さに対抗するための、巨大な相互保険会社のようなものである」

上巻 P.245 エドウィン・ハッブルの父、ジョンの言葉

 ドップラー効果で速度を求めるなどという話は、たいていの人にとっては初耳だろう。しかしこの方法は、たしかに使いものになる。それどころか非常に信頼性が高いため、警察はドップラー効果を利用してスピード違反を検挙しているほどなのだ。警察官は、近づいてくる車に向かって電波のパルスを発射し(電波も光の仲間であり、スペクトルでは可視光の外側にある)、車にぶつかって跳ね返ってきた電波を検出する。跳ね返ってきたパルスは、事実上、運動物体、すなわち車から出たものとみなすことができる。車の速度が大きければ大きいほど波長のずれも大きくなり、スピード違反の罰金も上がることになる。
 あるジョークでは、天文台に向かって車を走らせていたある天文学者が、ドップラー効果を利用して警察を丸め込もうとした。その天文学者は信号無視をして捕まったのだが、自分は信号に向かって走っていたため、赤信号の光が青方変位のために青く見えたのだと言い訳をした。すると警察官は、信号無視は見逃してやる代わりに、罰金を倍額にしてスピード違反のキップを切った。波長がそれほど大きくずれるためには、天文学者は時速二億キロメートルほどで車を飛ばしていたことになるからだ。

上巻 P.277

銀河団は一吹きの煙のように拡散しつつある。私はときどき、銀河団自体が一吹きの煙にすぎないような、より大きなスケールの存在はないのだろうかと思うことがある。

――アーサー・エディントン

自然は私たちに、ライオンの尻尾だけしか見せてくれません。しかし私は、たとえライオンが大きくて、いっぺんに全体を見ることはできないとしても、その尻尾の向こうにはライオンがいることを疑ってはおりません。私たちは、ライオンにくっついている一匹のシラミのようにしか、ライオンを見ることはできないのです。

宇宙論研究者はよく間違いを犯すが、疑いを抱いたためしはない。

――レフ・ランダウ
第Ⅳ章 宇宙論の一匹狼たち 序文より

 これら原子核物理学の規則と天文学とを結びつけた最初の科学者の一人は、勇敢で筋の通った生き方を貫いたフリッツ・ハウターマンスという物理学者だった。彼は人間的な魅力とウィットに富んだ発言で知られていた。ジョーク集が四十ページの小冊子として出版された物理学者は彼ぐらいのものだろう。ハウターマンスの母親は半分ユダヤ人だったので、彼は反ユダヤ主義的な発言に対し、こう言ってやりかえした。「きみたちの先祖がまだ森の中で暮らしていたときに、ぼくの先祖はすでに小切手を偽造していたんだぜ!」

下巻 P.46

 ビッグバン元素合成をモデル化するための第一歩として、ガモフはごく初期の宇宙では温度がきわめて高かったため、すべての物質はもっとも基本的な形に分解していたと仮定した。したがって宇宙の最初の構成要素は、バラバラの陽子と中性子と電子――すなわち当時の物理学者に知られていたもっとも基本的な粒子――だった。彼はこれらの粒子の混合物を、「アイレム」と呼んだ。これはガモフがたまたまウェブスターの辞書をめくっていて見つけた単語だった。すでに死語となったこの中世英語の言葉には、「元素を形成するもとになった原初の物質」という説明があった――中性子、陽子、電子からなるガモフの高温スープには申し分のない意味である。

下巻 P.61

いいですか、有線電信というのは、長い長い体をした猫のようなものです。ニューヨークで猫の尻尾を引っ張ると、ロサンゼルスで猫の頭がニャーと鳴く。わかりますね? 無線もまったく同じことです。唯一の違いは、猫がいないことです。

科学で耳にするもっとも胸躍る言葉、新発見の先触れとなるその言葉は、「ヘウレーカ!(私は発見した)」ではなく「へんだぞ・・・・・・」だ。

一般に、われわれは次のようなプロセスで新しい法則を探す。第一に、当てずっぽうで考えてみる。笑ってはいけない。これは一番大事なステップなのだ。次に、その法則でどういうことになるか計算してみる。そして、得られた結果を経験とくらべてみる。もしも経験と合わなかったら、当てずっぽうで考えたことは間違いだ。当たり前のことだが、ここに科学への鍵がある。きみの考えがどれほど美しいか、きみがどれだけ頭が良いか、きみの名前が何であるかとは関係がない。経験と合わないものは、間違っている。それだけのことだ。

――リチャード・ファインマン
第Ⅴ章 パラダイム・シフト 序文より

 マーカス・チャウンは、その著書『僕らは星のかけら――原子をつくった魔法の炉を探して』(原題 The Magic Furnace)の中で、星の錬金術の重要性について次のように述べた。「われわれが生きるために、十億、百億、それどころか千億の星が死んでいる。われわれの血の中の鉄、骨の中のカルシウム、呼吸をするたびに肺に満ちる酸素――すべては地球が生まれるずっと前に死んだ星たちの炉で作られたものなのだ」ロマンチストは、自分は星くずでできているのだという考えが気に入るだろう。冷笑家は、自分は核廃棄物だと考えることを好むかもしれない。

下巻 P.140

 少々横道に逸れるが、ジャンスキーによる銀河電波の検出は、本来の目的とは異なるすばらしいものに偶然に出くわしたという意味で、いわゆる「まぐれ当たり」だったことに注目するのは興味深い。実際これは、科学上の発見には驚くほどありふれているにもかかわらず、あまり知られていない「セレンディピティー」という現象のみごとな一例となっている。セレンディピティーという言葉は、一七五四年に作家のホラス・ウォルポールによってひねり出された造語である。ウォルポールは知人への手紙の中で、人間関係に関する偶然かつ幸運な発見について書いたときにこの言葉を使った。

 こういう発見を、私はセレンディピティーと呼んでいます。この言葉にはたいへん深い意味がありまして、どう言ったものやらわかりませんが、なんとか説明を試みてみましょう。こういう場合、定義よりも由来から入るほうがわかりやすいでしょう。いつだったか、私は『セレンディップの三人の王子』という他愛もないおとぎ話を読んだのです。三人の王子が旅をしていると、偶然と賢慮により、探してもいなかったものがいつも必ず見つかるのです。

 科学と技術の歴史には、セレンディピティーがいくらでも転がっている。たとえばこんな例だ。一九四八年のこと、ジョルジュ・ド・メストラルがスイスの田舎を歩いていると、トゲだらけの植物の種がズボンにたくさんくっついた。トゲは鉤のようになっていて、それが繊維のループにひっかかっていた。これがヒントになって発明されたのがベルクロ(マジックテープ)である。くっつき系のセレンディピティーをもう一例挙げておくと、強力な接着剤の開発に取り組んでいたアート・フライは、簡単に剥がれてしまう弱い接着剤を合成してしまった。地元の聖歌隊の熱心なメンバーだったフライは、失敗作の接着剤で細く切った紙をコーティングし、賛美歌集のしおりとして使ってみた。こうしてポストイットが生まれた。医学上のセレンディピティーにはバイアグラがある。この薬はもともと心臓病の治療薬として開発されたものだった。研究者たちがこの薬の有用な副作用に気づいたのは、臨床試験に参加した患者たちが、心臓病にはとくに効果がなさそうだったにもかかわらず、未使用分の薬を断固返したがらなかったからだ。
 セレンディピティーを積極的に生かした科学者たちを、単に幸運な人たちと分類するのはたやすいが、しかしそれは正しくない。セレンディピティーに恵まれた科学者や発明家が、偶然の発見から先に踏み出せたのは、その発見を適切な文脈の中で位置づけるだけの知識を蓄積していたおかげなのだ。ルイ・パストゥールもまたセレンディピティーに恵まれた人物だが、これを次のように述べた。「チャンスは備えある者に訪れる」ウォルポールも前掲の手紙でこの点を強調し、セレンディピティーは「偶然と賢慮」のおかげだとしている。
 セレンディピティーに恵まれたいと願う者には、チャンスを逃さない心構えも必要だ。植物の種がびっしりとくっついたズボンにブラシをかけて終わりにしたり、失敗作の接着剤を流し台に捨てたり、効果のなさそうな試験薬を廃棄したりするだけではいけない。アレグザンダー・フレミングペニシリンを発見したのは、窓から飛び込んできた一片の青カビがシャーレに落ちて、培養していた細菌を殺したことに気づいたからだった。それまでにも大勢の細菌学者が、培養していた細菌を青カビに汚染されたことだろう。だが彼らはみな、何百万人もの命を救うことになる抗生物質を発見する代わりに、がっかりしながらシャーレの中味を捨てていたのだ。ウィンストン・チャーチルはかつてこう述べた。「人はときに真理に蹴躓いて転ぶが、ほとんどの者はただ立ち上がり、何もなかったようにさっさと歩き去る」


下巻 P.160

 哲学者であり神学者でもあった聖アウグスティヌスは、紀元四〇〇年頃に書かれた自伝『告白』の中で、「ビッグバン以前はどうなっていたのか」という問いの神学版というべきものに対して、彼が聞いた答えを引き合いに出した。

 神は天地創造以前に何をしていたのか?

 神は天地創造以前に、そういう質問をするあなたのような人間のために、
 地獄を作っておられたのだ。

下巻 P.254

新しい理論が受けいれられるまでには次の四つの段階を経る。
第一段階――こんな理論はくだらないたわごとだ。
第二段階――興味深くはあるが、ひねくれた意見だ。
第三段階――正しくはあるが、さほど重要ではない。
第四段階――私はずっとこの理論を唱えていたのだ。

J・B・S・ホールデン(一八九二~一九六四) イギリスの遺伝学者
付録■科学とは何か?――What Is Science? より

ブラックホールという言葉はおそらく『大空魔竜ガイキング』で知り得たと思われるが、ビッグバンという言葉をどこで聞き知ったか定かではない。『小学ン年生』か『科学と学習』か、『コスモスエンド』あたりであろう。
以後ちょこちょことかじってはいたが、理論成立に至る過程には特に興味もなく過ごしていた。

本書は、古代ギリシャの哲学から、コペルニクスガリレオによる科学的思考の黎明期を経て、様々な科学と科学技術の応用によって宇宙のありようが現代のように表現されていくようになった過程を描いている。

難しく感じるかもしれないタイトルだが、本書を読み解くのに必要な素養は好奇心のみ。
数学と物理と化学に知識があれば、ガッコで過ごした日々のことを思い出しもするだろう。そんなこととは無関係に、数学は苦手、物理は高校レベル、化学はチョー苦手という個人的な事情をかつて持ちいまなお持ち続ける者にも、面白く読むことができた。
『銃・病原菌・鉄』そして『シヴィライゼーションⅣ』に感じたような、もちろん同著書『フェルマーの最終定理』に覚えたような興奮を感じながら。
人類の悲喜そして賢愚の象徴のひとつであるBaba Yetuが、脳内で鳴りやまない。