でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『一歩、踏み出せない人のために』

 ――あまり進んで話したくないことですから言いませんでしたが、手首を取られただけで抜けそうになるなど誰も想像はしないでしょう。全身の関節が異常ということを知っている人は少なく、膝に水が溜まるくらいにしか思われていないようでした。

P.111

 私が中学生になった夏、父に向かって「ケンカの仕方を教えて」と、言ったことがありました。いまから思えばバカなことを言ったものだと思います。そのとき父は、唖然とした表情をして冷ややかに「お前は、いったい何をする気なんだ?」と。
 そのとき父が言ったことは「ボタン一つでミサイルが飛んで来る時代だぞ、相手がどんな凶器を持っているか、また何人いるか分からない、そんな状況の中で、無手でできることの限界を知らないで向かって行くことほど愚かなことはない。たとえ有段者であっても過信することがいちばん危ない。護身術とはそういう状況を作らないことが第一番目、次が自分の有利な状態を作り出すこと。どうしても避けられなかった場合に、身が守れるか・・・・・・ということだ」ということでした。

P.196

少林寺拳法にも、いろいろ事情があるようである。
比較的最近の入門者としては、聞こえてくるがなんのことかわからない話もあり、いろいろと難しいものだなと思うのみである。
私は無信仰・無宗派である。宗門を問わず、宗教の教えそのものに思うところは特にないが、宗門を問わず、教団には思うところがある。組織護持が第一になってしまうことに、教えとの乖離が見受けられるからだ。

そのような個人的な事情を主として、第二世宗道臣の著した本書には、特に興味を抱くことはなかった。時折本を貸してくださる同輩から手渡されなければ、読むこともなかっただろう。

私自身のくだらない思い込みに反して、実によい内容だった。組織のトップという立場にあるものが組織護持を主とすることに否定的な見解をもっていることが、特に強く響いた。
また、有段者とはいえ、未熟な身の上のおこがましさを押し殺して、自らに強いるように指導の手伝いをさせていただいているような者には、福音の書といえるのではなかろうかとも思えた。

 

 

本書を読んで、想起されることがある。数年前のことだ。

私がお世話になっている道院に、ある女性がやってきた。
小柄であり、五年のブランクがあるが、すり切れた黒帯を締めており、武専にも通うという意気込みがあることから、それなりに期待してよいのだろうと思っていた。

手首が外れやすいということは、前もって聞いていた。
「でも大丈夫、すぐ入れられるから」
と笑顔でいうので、一年ほど経った頃だっただろうか。「リハビリ」と彼女が自らそう称した期間中は無理をさせぬようにしていたが、そろそろよかろうと、逆小手を共に稽古することにした。
黒帯同士なら試せるアレコレもあるので、ややキツめだったかもしれない。だが、意図してそうしたわけではない。というか、そのような技術は有していない。

ほいっと倒したら、
「手首が抜けちゃったじゃない! 馬鹿ァ!」
と罵倒された。
え? ってなモンである。当初は、冗談で言っているのかと思った。
たとえ女性でも、子供であっても、手首はこんな簡単に抜けてしまうものではない。罵倒しつつも自分で手首をこねこねして、常態に復帰したようだ。「よく外れる」という言葉を裏付けるものだが、初めて出くわした者としてはただ当惑するしかなかった。

逆小手という技は一般部ならば入門後すぐに習得を開始する技であり、黒帯ならば、それこそ無数に稽古していなければならない。黒帯になるためには、逆小手のバリエーションも幾つか習得することになる。どのような「黒帯」なのか、察してあまりあるできごとだった。
他人のことをとやかく言えるほどの技量はないが、稽古の量と工夫にはそれなりに自負するところがある。スマートに決めてみせることはできないが、できなくて悩んでいる相手に似たような悩みをクリアしてきたことを告げることはできる。
以後、彼女に対してはカタチを見せるだけにとどめ、二度と逆技の稽古はしなかった。

さて、開祖自ら公言しているように、少林寺拳法は、武術習得が主ではない。武術は手段であり、目的は人間力の向上にある。その女性には、私が逆立ちしてもかなわないほどの高い対人親和力があり、新しい出会いにおいて、あっという間に輪にとけこんでいく才能があった。
だから、彼女に関して、黒帯という識別子が技術に対するものではないと理解するようになっても、オーバー30という年齢に期待できる振る舞いがあればよいと考えた。俺様何様でいやになるが、自らのレゾンデートルにも関わることであるからして、なんとかして彼女の「黒帯」を肯定したかったのだ。

だが、しかし。
しばらく様子を見ていたが、彼女のその才能は、一般的に大人が小人に対面したときに期待したい社会性には発揮されなかった。端的にいえば友達感覚というもので、いっしょになってふざけてしまうのだ。
いっしょにふざけて、少年たちのテンションをあげてから稽古に取り組ませる方法もある。自らそうすることもある。だが、ふざけることに終始してしまっては、道院に通う意味がない。
指導をしろとはいわない。少年たちに対し注意を払い、大人的態度をとってくれさえすればよい。そういうことが期待できない人物であるとわかってしまった。

 
やがて、彼女は他の趣味に打ち込み始め、疎遠になり、仕事の勤務地が遠地となったため稽古に通うことが困難になり、来なくなった。五年のブランクをおしてまで通う決意を見せた武専も留年し、休学となった。

鬱でひきこもっていた時期があったと、かつて本人は明るく語った。
当初見せた熱意の背景には、それを打破したいという思いがあったのだろう。その意気やよし。だが、燃え尽きてしまったということになろうか。
あるいは私が知らない事情があるのかもしれない。

私自身も仕事やMMOにハマって、通わなくなってしまった時期がある。今でこそ休まず通っているが、当時は先生や先輩の間で「もう来ないな」と言われていたことを、先生自身の口から教えていただいた。
個人的には、やれるならやればよいと考えている。それがまだ許される段階であろうと考えている。組織護持に否定的な見解をもてるのも、このゆえであろう。

少林寺拳法の教えは特別なものではない。社会的に生きる人間ならば、誰もがそう振舞ってしかるべきことがらを気負いなくやろうじゃないかと述べているにすぎない。だが、それを行うことは現代日本社会では難しくなってきており、気負わなければできないと感じている。

修学中という気楽な立場においても、自ら立つ、立ち続ける、ということは、私が思うよりも難易度が高いことなのかもしれない。