読物 『風よ。龍に届いているか』
考えてみれば幼少の頃から今でいう「スピンアウト作品」に触れてきた。それらを楽しんでいた記憶は確かにあるのだが、いつからだろう、ネガティブな印象をまず抱くようになってしまったのは。『ウィザードリィ』がその題材となるとこれは顕著となる。
テレビマガジンやテレビくんに掲載されていたヒーローもの、小学X年生やコロコロコミックに掲載されていたウルトラマン、コミックボンボンに掲載されていたサンライズもの、それらのコミカライズにも感じなかったわけではないコレジャナイ感が半端ないためであろう。
ゲームからのノベライズ、特にRPGからのそれとなると、ゲームのシステマティックな面の描写が一つの大きな枷となるように思われる。描写せねば「それ」ではなくなるし、描写すればいかにもゲームのようになってしまう。かつて大いに楽しんだ石垣環版『ウィザードリィ』も、楽しむためにはシステマティックな描写についてはスル―せざるを得ない部分があった。
それから数年で、どちらかというと毛嫌いするようになってしまったのはたぶん、ドラゴンマガジンやLOGOUTなどが影響しているのではないかと思われる。
というわけで、ベニー松山という、いつの間にかその筋では第一人者と目されるようになっていた、いささか謎な経歴をもつ人物の小説は、『ウィザードリィ』のスピンアウトという理由だけでずっと忌避してきた。
本作品について、「ファンタジー世界を舞台にした小説」として読むならば、わりと好きな部類に入れられる。白兵戦闘がアニメチックでありすぎるきらいがあり(^_^;な一方で、魔術行使の描写は一部好みに近い。
それでもやっぱり「善悪の戒律」だとか「階梯」だとか「転職」だとかいうシステマティックな描写や、個人的『ウィザードリィ』観点からすると嘔吐しそうな「エターナルチャンピオンとガイア理論を混ぜたような大仕掛け」は、#1~#3などシリーズをまたぐ際のシステムを大真面目に解釈するとこうなるのかもしれないが、どうにもアレだ。
読後、ウィザードリィ#1~#3を遊びたくなったことからすると、総じて可、となろうか。