でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

奴隷船の世界史

 したがって、年季奉公人制の実態は、一言でいえば「偽装された奴隷制」にほかならなかったのである。年季という制限はあったものの、労働実態は奴隷制下と変わらなかった。あるいは、ジャマイカに派遣されたある有給判事が報告したように、奉公人の状態は奴隷制のときより三倍悪くなっていることさえあった。また、奴隷制廃止後再びジャマイカに戻っていたバプティスト派牧師のニブは、奉公人たちがいまだに容赦なく鞭うたれ、幼い子どももプランテーションで労働させられている、との報告を本国に送っている。

P.201

 奴隷制貿易禁止とアフリカ分割
 奴隷船が大西洋を跳梁する時代は終焉を迎えたわけであるが、皮肉なことに、奴隷貿易禁止がヨーロッパ列強の植民地主義を正当化する理屈に組みいれられた。その先鞭をつけたのは、イギリス政府とイギリス海軍であった。シエラ・レオネ植民地の形成についてはすでにみたとおりだが、もう一度、この点をおさえておこう。
(中略)
 また、イギリスのアフリカ諸国に対してとるべき姿勢は、大人の子どもに対する姿勢と同じであるとされた。すなわち、イギリス人は「アフリカ人にとって良いこと」を決めてやり、アフリカ人にそれを課すことができるとするのである。奴隷貿易禁止はアフリカ人にとって良いこととされた。アフリカを「文明化」するという論理によって、アフリカへの介入が正当化されたのである。
 イギリスの先鞭に倣ってヨーロッパ列強は、奴隷貿易禁止の御旗をかかげ、アフリカ沿岸部から内陸に侵入していった。一八八四年、激化する植民地競争を調停するためにビスマルクの提唱によって開かれたベルリン会議では、列強一四カ国による「アフリカ分割」のルールが取り決められた。さらに一八八九年のブリュッセル会議では、奴隷貿易禁止がアフリカに対する外交政策の中心となっていくのである。

P.219

太平洋戦争への道のりとして、いつからか漠然と、遠因を黒船来航に見出していたが、近年は大航海時代にあると見なすようになっていて、大航海時代がもたらした諸々のことに半ば無意識に興味を覚えるようになった。
本書もタイトルからほとんど反射的に読もうと決意したものの、いざ手に取ってみるとそれほど強い興味は覚えず、とまどわされた。我ながら不思議な感性である。
しかし、読んでみれば無意識の選択は正しかった。どこかで「アメリカはイギリスの後継者たらんとしている」ようなことを見聞きした覚えがあるのだが、奴隷制廃止に向けて軍事力を発揮してまで意思を押しとおした英国のやり方、その一方で植民地主義大義名分として活用するやり方などを本書を通じて知ってみれば、なるほどその見解には大いにうなずけるものがある。

個人的な見解の拡大がどのあたりから始まったか明確に思い出せないが、『銃・病原菌・鉄』『新書アフリカ史』『大英帝国の歴史』などを経てここに至ったという自覚はある。