でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

間接護身入門

少林寺拳法をやめたあと、次に何をやろうかを考えていた。
いささか慎重に期しすぎ、何年も経過してまだ何も選べていない。学校であれ個人であれ、師を選ぶということは軽率であってはならないと思うようになったからだ。

インターネットで主に情報収集していたが、これといったものに遭遇せず、今ではTwitterで興味をひかれたアカウントをフォローして受動的な姿勢をとるようになってしまった。

その中で、本書を知った。Twitterで得られる特に書籍情報は玉石混交で、中にはマニアックな書もあり、読んでみてがっかりするケースもままある。
さて、武術を題する本書はどうか。

かつて少林寺拳法を学んでいた時、学ぶ以前は漠然としか知らなかったことを知るようになり、本書でいうところの「直接護身」についてリスクを感じるようになった。「黒帯は素手でも凶器所持扱い」というやつである。
空手でいうところの初段は少林寺拳法でいうところの四段に相当する通念があり、これは真実で、少林寺拳法の初段ではよほど熱心に稽古していなければいわゆる黒帯にふさわしい実力を備えることはできないと思っている。とある空手で問われる十人組手の実力はない。
これは批判ではなく考え方の相違として受け止めていて、少林寺拳法の初段に与えられる黒帯は、集団内である程度の自覚と責任を有するべきであるとする考え方としてとらえている。集団に対して身の丈に応じた貢献をする――大会の準備手伝いや、後輩を指導など――べく、それを期待して付与されるものである。昇級昇段に際し、実技だけでなく筆記試験を伴う理由としてそのように肯定できる。
この通念が社会に通じるならば我が身はギリ黒帯ではなく、凶器所持扱いにはならないが、獲得した段位は黒帯なので、たぶん社会には通じない。

武術をやっていれば、実力行使について質問を受けることもある。質問者はきっと、華麗に武技を行使して優雅に襲撃者を制圧、正義の執行者となれる夢を期待している。
そんなときに、リスクを前面に押し出した回答を出せば、聞いている相手にも、発している当人にも残念な思いが去来することは禁じ得ない。
まさしくそんなことが、本書に記されている。

たとえ襲われたとしても、結果的に加害者に過分な暴力を働いてしまえば、被害者が刑罰や賠償金を課せられるケースがある。被害者が武術を経験していても、していなくてもそうなのである。そのようなことについて、これまで知っていたよりも深く、本書から知ることとなってしまった。日本は犯罪者に甘いというが、それが事実かどうかはともかく、やったもん勝ちの印象がこれまで以上に強くなってしまった。
余談だが、法は公平ではないというのは、2019年4月の事故発生から2019年9月現在まで加害者が逮捕に至っていない死者を出した交通事故のケースからも学んでいる。

武術を学んだとしてもそれが学んだとおりに行使できるかどうかはその時になってみなければわからない。
それなりに時間をかけて学び自覚したことは、いざとなったとき、ある程度自動反応することがあり、その抑制が困難である時期がある、ということだ。自動で発さないレベルにとどまっていればよし、自動で発することも抑止できるようなレベルに到達していない、半端な修行者は危険である。
そしてまた、学べば誰もが同じレベルに達することができるわけでもない。どんな状況でも狙ったとおりに効果が発揮するとは限らない。

リスクを回避するような考え方が身についたのは武術を始めるよりも前のことで、具体的には朝の通勤時間をなるべく避けて電車に乗るということだった。
元警官である著者もそのようなことを体験した事柄から引用している。身を守るべく努力したものが、さらなる努力を強いられるとは実にやるせない。