でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

駄文 『もっと知りたい武術の極意』

 現代でも、自身が武道家、武術家であるとアピールしたがる人は少なくありません。

 中には、わざわざ和服を着て真剣を持ち歩いたりしてまでアピールする人もいます。本人は時代に迎合しない反骨精神をアピールしているつもりなのかもしれませんが、ちょっとナルチシズムが匂って恥ずかしいかもしれませんね。

P.203

 でも、日本に生まれたんだったら、日本の文化や伝統のルーツを大切にする心だけは失っちゃいけないと思うし、それはどこの国の人だって同じだと思いますよ。

 自分を大切に思うように、人も尊重する。それが大和心ってものだし、日本の武術が「無敵の境地は我も敵もないというすべてが和する境地」だという認識に到達したのは、技術としての「武医同術」や「活殺自在」「殺人刀と活人剣」「相ヌケ」といった、「敵対する者の暴力を起こす心を打ち折って和合すべし」という武術が目指すべき究極の境地を示したところに価値があるんですね。

P.217

人生を四十年もやっていればある程度文章に好みも生まれるもので、好みからその美醜も判断するようになる。

個人的に好みと感じる文章は、文章の情報密度がやや過多でありながら、それが著者独自の陶酔に依りすぎず構成されており、容易に読解可能であるというものである。また、主張に齟齬がないことである。(「一日に30時間という矛盾!」を楽しめないわけではない)

くどくどと長ったらしいくせに情報がない(かめろんめろんああかめろん)文章は受けつけない。俺はいいけどお前はダメという主張も受け付けない。

五年くらい前に出会っていれば、あるいはこのシリーズになにかを見いだせたかもしれない。文章中にたまにあらわれる脱線オタク話を楽しんだかもしれない。なにかとツキがない人生だが、目に見えないところで微弱にツキが働いているようだと、こんなときに感じられる。

そう、オタク。著者はオタクである。知識は豊富だ。それを上手に活かして、ない内容を、あるように見せかけている。この本が実現可能とうたう技術は「縮地法」とやらに依存しているが、それは一度たりとて説明されたことはない。これは著者が声高に幾度も主張する「極意を隠す武術家」の姿勢を自らに許していることになる。根幹の主張・技術について信頼性が確立されていないのに、以後の主張・技術について云々できるはずもない。

先輩が借してくれるというので断り切れず読むことになってしまったが、ここは因果を断ち切る必要がある。

四冊もつきあったのだから、もういいだろう。