でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『サーラの冒険』

ソードワールドと、『サーラの冒険』は、どちらかというと嫌いなコンテンツだった。

第一の要因は天野喜孝だ。

『バンパイアハンターD』のカバーイラストで魅了され、表紙買いでトレジャーハンターシリーズに着手した個人的経緯がある。しかし、その後数年で、腐った。グイン・サーガのカバーイラストが氏に変更されたときは、その判断を下した誰かに猛省を強いたい気持ちでいっぱいになった。

因果関係を明確にすると、ソードワールドのイラストは氏が担当している。腐れた絵で。
単純なもので、表紙買いの反対の衝動が行動原理に追加されたらしい。

大破壊組は、その著作はあまり知らないが、HMかなんかの別冊で『○ロ漫画の描き方』みたいな本に載っていたいーかげんな講座に魅了された個人的経緯がある。アニメーター集団だと自称した彼らの中には、それに恥じず安彦良和そっくりなエ○を描く者もいた。
幻超二はその一員であり、『サーラの冒険』のイラストを担当している。同作品における画風は天野喜孝を模倣しており、だから、嫌いだった。
サーラの冒険』の第一印象は作品の出来とは無縁に決定されてしまっていたと今ならわかるが、どうでもいいことでもある。

余談だが、ソードワールドが嫌いな理由はまだある。
一つは、ぬるいセカイ設定だ。底の浅い博物学だ。似非文化人類学だ。「古代帝国の失墜によって失われた魔法文明」を「ほげほげ」に置き換えるとFFに置換される。そんなカンジだ。
SNEが総力を結集してその程度だったのか、あるいは対象年齢を低く設定したためにヲトナなことは省略したからなのかはわからない。だが、当時、内部から発する炎に炙られていた我が身にはそれは受け入れがたいものだった。
使うサイコロの種類を一種にして簡易化したというルールは、ルールの簡易化にも、時間短縮の役にも立っていない。そんなところも、ちょっと嫌いだった。D8とかD20とか、ふりたいじゃんよ!?
もう一つは「冒険者」という単語だ。「それはルールブックがプレイヤーキャラクターを指す言葉であり、社会がプレイヤーキャラクターを指す言葉としては成立しがたい」という俺ルールが、現在に至るまでも頑なに許容を拒んでいる。少数の道楽者を指す言葉としては適しているが、社会を構成する一要素を指す言葉としてはいかがなものか。物語の住人が自らの住まう大地を「世界」と表現することともども、気にくわない。
そして円環は閉じる。それを許容してしまう世界設定はぬるいのではないか、と。

ソードワールドに至る前の展開は嫌いではなかった。出渕裕のイラストという要因が大であったにせよ、RPGリプレイ『ロードス島戦記』は連載を毎回楽しみにしていたものだ。
SNEはおそらく、フォーセリアを既存のルール、すなわちD&Dの一ワールドとして存在させたかったのではなかったろうかと思う。許されるならば、そうしていただろう。当時、新和は版権にうるさいとされていた。それはすなわちTSRの態度であり、TSRはかつて舐めさせられた辛酸をよく味わって、そのような態度を取るようになったという。
コンプティーク愛読者の誰もが望んでいたに違いないD&Dでの展開はなくなり、ロードス島戦記RPG(角川)が生み出され、「呪われた島」という鬼子を孕んだソードワールドRPG(富士見)へ結実した。後世の歴史家史観でいうなら歴史的必然の結果となる。ルールの乱発はソードワールド以前からあったが、それほど多くのシェアがあるわけではない。マニアが収集し、遊べれば遊ぶという市場に、過剰な供給が与えられ続けた。いずれも似たり寄ったりで目新しいものはなく、D&DかWARESでいいやと思えるようなカンジだった。TRPGにおける新しい遊びの提案がなされるにはMt:Gという要素が必要で、停滞から脱するのに10年くらいかかったように思う。それもまた歴史的必然か。国内では一社しか元気のないTRPGは今、和も洋もコンボでパーティ連携が当たり前になっているようだ。

ソードワールドでSNEが初期に目指そうとしたものは理解できるような気がする。残念なことに、個人的にはそれはあまりにも未熟で稚拙だったという印象しかない。雑誌展開という制約によって、早産を宿命づけられていたからかもしれない。
彼らにはもっと違ったことができたはずなのに。システム開発に注いだコストを、別なことに使えたはずなのに。そんな風に思ってしまう。
GURPSの頃は、新システムへの興味もなくなり気味で、ルールが煩雑なことだけは知っているが、よく知らない。

電源不要ゲームで一世を風靡したTRPGが下火になって、老舗は新興に吸収され、D20というシステムがフリーで配布されるようになった。SNEが目指したであろうこと、二十年ほど前に個人的に小声で叫んでいたことが現実になったといえる。
現役を退いた今、D20がどの程度のシェアをもっているのか知らないが、かつて在りしシステムがD20にリプレイスされたという話は聞いている。かつては世界=ルールだったが、それはデザイナーのこだわりといえなくもない。
純粋にシナリオを楽しむためには。ルールがシナリオを楽しむために十分であるならば。ルールは一つでいい。

サーラの冒険』はソードワールドRPGの背景世界たるフォーセリアを舞台にした物語である。2011年4月現在におけるシリーズは以下の通り。著者自ら、もはや続編はないとしているようだ。

# 1 ヒーローになりたい!
# 2 悪党には負けない!
# 3 君を守りたい!
# 4 愛を信じたい!
# 5 幸せをつかみたい!
# 6 やっぱりヒーローになりたい!
# サーラの冒険Extra 死者の村の少女
# 短編

さて、前述の「ぬるさ」は、『サーラの冒険』においては「盗賊ギルドというものを肯定する論述」に象徴される。なにかに触発されたとわかるようなわからないような、真似してみたかったんだよ感が伝わってくるようなこないような、そんな個人的印象はさておいても、なんというか、説得力に欠ける印象を拭い得ない。
どうでもいいような設定なら流し読みできるが、わりと根幹な設定なので無視できない。
そんな気が、当時はしていた。

短からぬ時が過ぎ、長らく未完だったものが完結したと知って、再読してみる気になった。
いろんなものに触れた今、ソードワールド世界に対するアレコレは払拭できないとしても、物語作品としては楽しめるものだったと感想を改めた。
やっつけで、引導を渡してやる、な印象を新たに得たとしても。
熱源に温度はもはやない、ということになろう。

幻超二は現役を退いたそうだが、本シリーズの最後においては、草彅琢仁と、在りし日の弘司に傾倒しているようである。