でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『鏡の法則』

いつものつもりがいつもよりも消耗してしまった三月度武専の座学にて、本部派遣講師よりご紹介いただいたものである。

座学では珍しくディスカッションの時間が設けられた。そのまとめの最後に講師はポツリと「川上濁れば川下濁る」と漏らされた。講師は本業が高校の教員であり、同校の校長先生がなにかの折にふと漏らした言葉だったそうだ。「川上」がなにを指すのか、それは明示されなかったが、肝に銘じるとともに、思い当たる実例が幾つか脳裏をよぎった。

我々ないし私が他者に与えられる影響は時には存外に大きいものとなりえるが、常にはないといって差し支えないほどのものである。
週二回、たった二時間のことである。一週間は168時間。その他のことをして過ごす時間に比べれば、無いに等しい。

このようなことを考えされられた初めてのケースは、県内の他の道院をたらいまわしにされてきた子と出会った時のことだ。当道院で三か所目だったか、二年か三年在籍して辞めていった。私が首座を継続的に勤め始めるようになってまだ間もない頃のことだったと思う。
泣き虫で、一度拗ねると膝を抱えてうずくまってしまう。度が過ぎると道場内から姿を消し、どこかへ行ってうずくまり、誰かが探しに来て慰めに来るまでそこにずっといる。その子の事をよく知らないうちは、かなり心配して気を配ったものだが、だんだんとわかって来るにつれ、構わなくなった。フォローはしていたが、それでも彼のためだけに消費したコストを他の子たちのために振り分けられたら思うと、気が滅入るばかりだった。
同年代の子たちは最初はかばってあげていたが、なにやら悟るところがあったようである。技をかけてもかけられるのは嫌がり、技をかけあう前からペアの相手にダメ出しをし、しまいには構われなくなるどころかペアを組まされることを嫌がられていた。
甘ったれ、なのだ。
そんな我が子を、母親は「エジソンと同じなんです」と言った。エジソンの母親は我が子になにをしてあげたのか知ってて言っているのだろうか。
いじめられる側にも理由がある。そんな理屈あるかいな。その子と出会うまでは、そんな風に考えていた。今では、いじめられる側にも理由がある場合もある、と考えを改めている。
対等に並び立つことができなければ、立場を変えるか自分を変えるしかないのは老若男女を問わずあらゆるコミュニティで成立するルールだ。KYや弱者をかばいすぎると社会が混乱し疲弊していくのは現実がよく証明している。ネトゲで経験した方も少なくないのではなかろうか。コミュニティの指導者の器が大きくとも、構成要員のそれが同じとは限らない。そうした要素が混入していることを嫌ってコミュニティを去る場合もある。
子供の社会は平等だ。しかし、それは弱肉強食と同義でもある。言葉悪く言えば、バカの相手をいつまでもしてくれない。子供はまた不公平・不正を嫌う。自分はよくて他者はダメ、などという持論をかます奴はハブられて当然だ。
そんな子でも、一時期はかなりよい感じになったと思えたことがあった。その直後、来なくなった。しばらくして来たら、前のようになっていた。
家庭内でどのような扱いを受けているのか知らないが、甘やかされた挙句にもとのようになったと推察できる。

もう一例。
父親と息子がます入門し、母親ともう一人の息子がついで入門し、一家そろって拳士になった家庭があった。
熱心なんだかそうでないんだかよくわからない、というのは、技をかけると「痛い!」といって猛烈に怒るからだ。痛いことってわかってやってんだろそりゃないぜせにょーる。
夫婦そろってそうなのである。別に痛いことしたいわけじゃないし、自ら望んで怒られたいわけでもないし、だんだんに触らないようになっていった。
旦那の方は、こちらが他の方と技の稽古をしているのに雑談を持ちかけてきて空気も読んでか読まずしてかそれをずっと継続したがる。しかもアニメの話だ。すげなく袖にはしないが、長くは続けたくない。俺は稽古したいんだ! ますます距離は遠ざかる。
しばらくして、父親と二男がまず辞めた。もうしばらくして、母親が辞めた。
長男も辞める。
四年ほどになるのだろうか。ついにこの長男は正しく結手立ちを覚えぬまま辞めていく。彼の父親がやっていた、だらしなく膝を緩めて、だらしなく結手を垂らした姿をそれと覚えて、辞めていく。父の背中をずっと追っていた彼を誉める者はあるだろうか。
父親にも何度か指摘した。年上の方には注意しにくいもので、やりたいわけではないが、やった。治らない。子どもの方は、毎回どころではなく、同じ時間のうちに何度も注意した。治らない。
その子も近頃はペアないし、稽古の組にいれようとすると、相手の子たちから拒否られるようになった。まともな稽古にならないからで、しかも危険だからである。太って足が上がらなくなったことを意にも介せず、金的を蹴り上げて悪気もない顔をしている。甘ったれのツラだ。

褒めよう。
首座を務めるようになってから数年経って、簡単には褒められなかった幼少時代を振り返り、そんなことを思った。自らの経験を振り返れば、褒められた時には嬉しかったし、成果を出して足りないといわれた時にはやる気を失ったりもした。
簡単に褒めるのはよくない。価値がなくなる。だから、成果に評価を与える意味の褒め言葉を与えようと思った。
褒めたくても褒めることができない子というのもいるもので、こういうのは褒める側のセンスのなさなのか、褒められる側の間の悪さなのか、かつては褒めてあげられたのに、なにがどうなってそんなんなっちゃったのってなカンジもある。モノの本には難易度を下げて褒めろというが、そもそもやる気のない子は基本すらやりたくないわけで、褒める要素が見つからない。
やる気を持ってもらえるように、楽しんでもらえるようにコンテンツに工夫もしているが、それでもなお、というなら、もういいやという気にもなる。指導者モードは仮面なのだ。素の私は求道者なのである。変な言いわけをしようもののなら斬って捨てるタイプなのを、それじゃいかんと自らに強いているのである。

合う合わないというのは確かにあるので、なにやってるんだかわからずにさせられてる子供にとっては、よくわからんことで怒られたり褒められたり、そんなカンジなのだろう。楽しんでもらえる子にとっては楽しんでもらいつつ上達もある。

本書の意図することは、私的な例とは微妙に異なる。
そうする必要のないほど具体的で短く簡単な内容ではあるが、あえて本例に即して翻訳を試みるならば、例えば我が子に礼儀を教えたい方が、そう望んで我が子を入門させたとしても、ご家庭で礼儀をおろそかにするシーンをお子様に日常的にお見せしているならば、我々ないし私が礼儀をお教えすることは不可能に近い、できたら奇跡である、ということになる。