でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『銃・病原菌・鉄』

 新しい技術のおかげで、より高速でより強力な、そしてより巨大な装置が可能になり、その使い道が見つかったとしても、社会がその技術を受け容れるという保証はない。一九七一年、合衆国連邦議会は超音速旅客機の開発予算を否決している。世界はいまだに、キー配列を効率化したタイプライターを受け容れていない。イギリスでは、電気が登場したあとも長いあいだ街路照明にガス灯が使われていた。社会がまったく相手にしなかった技術はたくさんあるし、長い抵抗のすえにやっと取りいれられた技術も山ほどある。社会はどんな要因によって新しい発明を受け容れるのだろうか。
 異なる発明がどのように受容されたかを調べてみると、そこには少なくとも、四つの要因が作用していることがわかる。
 もっともわかりやすい要因は、既存の技術とくらべての経済性である。たとえば、現代社会では、誰もが車輪の有用性を認めている。しかし、その認識を持たなかった社会も過去には存在した。古代のメキシコ先住民は、車輪のおもちゃを発明しながら、車輪を物資の輸送に使っていない。われわれにとって、これは信じられないことである。しかし、メキシコ先住民は、車輪のついた車を牽引できるような家畜を持っていなかったため、人力で運ぶことにくらべ、車の経済的利点は何ひとつなかったのである。
 二つ目の要因は、経済性より社会的ステータスが重要視され、それが需要性に影響することである。たとえば、ブランドもののジーンズを買うために、品質はまったく同じノンブランド品の二倍の値段を払う人は何百万人もいる。ブランドものの社会的ステータスが、金銭以上のものをもたらしてくれるからである。日本人が、効率のよいアルファベットやカナ文字でなく、書くのがたいへんな漢字を優先して使うのも、漢字の社会的ステータスが高いからである
 三つ目の要因は、既存のものとの互換性の問題である。キー配列を効率化したタイプライターがいまだに受け容れられないのもこのせいである。本書も、他のあらゆる印刷物と同様、キーボードの左側最上列に配置されている六文字の並びにちなんでQWERTYと名づけられたキーボードでタイプされた。しかし、信じがたいことだが、一八七三年に開発されたQWERTY配列は、非工学的設計の結晶なのである。このキーボードは、さまざまな細工を施し、タイプのスピードを上げられないようにしている。頻出度の高い文字を(右利きのタイピストに、力の弱い左手をあえて使わせるために)キーボードの左側に集中させ、しかも、上中下の三列に分散させている。こうした非生産的な工夫がなぜ施されたかというと、当時のタイプライターは、隣接キーをつづけざまに打つと、キーがからまってしまったからである。そこでタイプライターの製造業者は、タイピストの指の動きを遅くしなければならなかった。しかし一九三二年には、技術的問題が解決され、効率的配列のキーボードが開発され、試用者によって速度は二倍、使いやすさも九五パーセント向上することが示された。ところが、その頃にはQWERTY配列のキーボードが社会的にすでに定着してしまっていた。そのため、過去六〇年以上にわたって、キー配列を効率化したタイプライターを普及させようとする運動は、何億人ものタイピストやタイプ教師や、タイプライターやコンピュータのセールスマンや製造業者によって粉砕されてきている。
 QWERTY配列のキーボードはばかげた話であるが、多くの場合、経済的な影響はもっと深刻である。たとえば、半導体はアメリカで発明され、特許化されたのに、半導体製品の世界市場を牛耳っているのは日本である。これは、アメリカの対日貿易赤字の一因ともなっている。どうしてこんなことになったのだろうか。それは、アメリカの家電メーカーが、真空管を使った電気製品の大量生産に力を入れていて、自社の既存シェアを自社の半導体製品で食い荒らしたくないと思っていたときに、ソニーがウエスタン・エレクトリックから、特許の使用権を買い取ってしまったからである。また別の例が、イギリスのガス灯である。アメリカやドイツの都市がとっくの昔にガス等から電灯に切り替えたあとも、イギリスでは一九二〇年代になっても街路照明にガス灯が使われつづけた。それは、ガス灯設備に莫大な投資をおこなっていた地方自治体が、さまざまな規制を設けて、電灯会社の進出を妨害したからである。
 新しい技術の受け容れに影響を与える四つめの要因は、それを受け容れるメリットの見分けがつきやすいか否かである。たとえば、西暦一三四〇年、大砲はヨーロッパ諸国にまだほとんど伝わっていなかった。しかしダービー伯爵とソールズベリー伯爵は、タリファの戦いのとき、たまたまスペインにいて、アラブ側がスペイン側を大砲で攻撃するのを目撃した。大砲の威力に強く印象づけられた二人から大砲について教えられた英国軍は、それを積極的に取り入れ、六年後のクレシの戦いで早くもフランス軍に対して使ったのである。

下巻 P.59

 これら三つの島やタスマニア島で起こったことは、人類史上の一つの重要な結論を極端なかたちで示している。完全に孤立状態にあった人口数百人の集団は、存続しつづけることができなかった。人口四〇〇〇人の集団は、完全な孤立状態で一万年以上存続しつづけることができた。しかし、この存続には著しい文化的損失がともなっていた。そして、この集団は、いくつかの重要な技術を自分たちで発明することができず、結果として、他に類を見ない単純な物質文明のなかに取り残されてしまった。

下巻 P.156

 結論を述べると、ヨーロッパ人がアフリカ大陸を植民地化できたのは、白人の人種主義者が考えるように、ヨーロッパ人とアフリカ人に人種的な差があったからではない。それは地理的偶然と生態的偶然のたまものにすぎない――しいていえば、それは、ユーラシア大陸とアフリカ大陸の広さのちがい、東西に長いか南北に長いかのちがい、そして栽培化や家畜化可能な野生祖先種の分布状況のちがいによるものである。つまり、究極的には、ヨーロッパ人とアフリカ人は、異なる大陸で暮らしていたので、異なる歴史をたどったということなのである。

下巻 P.296

 ヒトラーと同じくらい歴史に多大な影響をあたえた人間は、アレキサンダー大王、アウグストゥス、釈迦、キリスト、レーニン、マルティン・ルター、インカ皇帝パチャクティ、ムハンマド(モハメッド)、征服王ウィリアム、ズールー王シャカなど、ほかにもたくさんいる。これらの人びとは、たまたまその時その場に居あわせた以上の影響を、人類史にどれだけおよぼしたのだろうか。一方には、歴史学者トマス・カーライルの、「世界史、すなわち世界で人が成し遂げたものごとの歴史とは、根本的には、偉人たちが世界で成し遂げたものごとの歴史である」という見方がある。プロシアの政治家オットー・フォン・ビスマルクのように、カーライルとはまったく正反対の見方をする人もいる。ビスマルクは、カーライルとはちがい、直接、政治の奥深くまでかかわっていた。そして彼は「政治家の仕事は、歴史を歩む神の足音に耳を傾け、神が通り過ぎるときに、その裳裾をつかもうとすることだ」と言う言葉を残している。

下巻 P.320

スペイン人によるインカ文明征服のエピソードを初めて知ったのはいつのことだったか。たぶん、小学館の小学生向けのなにかで、「ピサロがエル=ドラドを発見した」的な記事に触れたことがそれであろう。

三つ目がとおる』に耽溺し、世界中の伝説に心躍らせた少年の日々が終焉を迎える頃、「エル=ドラド伝説の真実」的な雰囲気の記述を目にしたたように思う。
曰く、予言の年に現れたピサロを神の使いと信じたインカ皇帝アタワルパは云々。曰く、インカ帝国を滅ぼしたのは武力ではなく、病気だった。当時のヨーロッパ人は不潔だった云々。

本書に依れば、インカ人が彼らにとって未知の病気によって壊滅的なダメージを受けていたことは確からしい。だがそれはピサロの侵略時にもたらされたものではなく、パナマにすでに入植を開始していたヨーロッパ人がもたらした病原菌がインカに到来し、いい感じに荒れ狂っているところにピサロがやってきたという順序になるという。
インカ皇帝ワイナ・カパックが病没し、インカは内戦――ワスカルとアタワルパの後継者争い――の渦中にあった。わずか180人の兵力でピサロが勝利しえたのは、銃と馬という、インカにとってはこれまた未知の脅威の優位性があったこともさることながら、インカ側の内部的事情もあった。
ではなぜ、銃と馬はインカに存在し得なかったのか。ヨーロッパ人がもたらした病気にインカ人は蹂躙されたが、なぜその逆はおこらなかったのか。

著者の友人、ニューギニア人のヤリはかつて、こう問いかけたという。
「白人はたくさんの『積み荷』(カーゴ)を持ちこんだが、自分たちには自分のものといえるものがないのはなぜか」

本書を読んでいる間中、脳内で『baba yetu』が鳴りやまない。
紀元前4000年から始まるCiv4では、神の視点をもつプレイヤーは文明を導くために資源獲得を目指す。神の視点をもたない人類が、資源を得て、技術を獲得し、文明を築き上げるには、どれほどのことが必要だったのか。

歴史の授業では、狩猟採集文化と農耕文化は対立するものとして扱われていたように思う。農耕文化が、狩猟採集文化にとってかわったというような印象である。
本書では、これは対立するものではなく、効率の問題にすぎないという。より投資効果――少ない労働力で大きなカロリーを獲得できる――の高い活動を取捨選択した結果にすぎないという。

そして選択の可否は、そこに住む住人の努力如何ではなく、まずは人類の手に馴染む資源の有無に依存するという。例えば、一年草が多種存在するエリアでは、食料にできるものの選択肢も多くなる可能性があり、できのよいものを採取し、育てるという無意識の品種改良も容易であるが、そうではないエリアでは、必然的に難易度が高くなる。
人類という種がすべからくそうしてきたであろうことは、現在でも狩猟採集活動を主にする人々がもつ知識がそれを裏付ける。そうでなければ、ナマコやウニが食用になっているわけがない。ともあれ、彼らが持つ自らの居住エリアを網羅する生活知識を目の当たりにしてみれば、既知の資源に対し、残らず試行錯誤を行ってきた歴史をもつことを証明するものであるという。

食糧生産の開始は、伝搬によるものもある。
大陸の広さ、大陸が東西に長いか/南北に長いか、などは、食料文化の伝搬に重要であるという。温暖な気候でコスト効率のよい農作物が、寒冷あるいは酷暑となる気候で同じ効率を示すとは限らない。コスト効率の低いものは取捨選択の選から落第し、既存の効率の高い活動にとってかわることはなく、落第したからには、その先のエリアへも伝搬しにくくなるいという。現代の企業戦略と同等のものである。
加えて、地形の要害も伝搬を阻害する。

原始的な品種改良は、実が大きい、生育が早い、など、捕食者にとって都合のよい個体を選択することによってなされてきただろうという。栽培種の遺伝子から、その祖となる野生種がわかるらしい。
長い長い時をかけて経験を積み重ね、資源の効率的利用が実現し、採集よりも栽培が勝ったとき、人類は農耕を開始し、定住をはじめたということになる。

農耕文化は生産に直接携わらない人員を養う余裕をもたらす。集団が発生すると、それを束ねる人々が現れる。そのような人々はやがて権威を持ち国家を成立させていく。ある文明では、文字はそもそも税を管理するために発明されたものだという。
文字をはじめとする文化は、発明されることとともに、それが維持されることが重要であるという。文化的交流が競合をうみ、発明を加速させることは、近代にあった世界的規模の混乱の例を示すまでもない。
文明とは、人が集中するところであり、その中には家畜の導入などによって労働の向上が図られたものもある。ヨーロッパ人がアメリカ先住民を駆逐し、その逆が起こらなかったのは、家畜と接した文明と、そうでなかった文明の衝突がもたらす必然であったという。家畜から感染した病原菌とそれに対する抵抗力を持ち得た人びとと、それを持ち得なかった人びとの、あるいは軍用に使役できる家畜を持ちえた人びとと、そうでなかった人びととの運命的な違いによる、と。インカ文明においては唯一ラマのみが家畜化されたにすぎないという。
病原菌にやられたのは南米ばかりではない、北米大陸のアメリカ先住民族も同様であるという。また、馬を駆り、銃を撃つインディアン(ネイティブ・アメリカンという表現を差別とする風潮もあるそうな)の姿が思い浮かぶが、アメリカ大陸には馬はいなかったか、更新世で絶滅ないし、捕食されつくしてしまっていたという。

これらはすべて、食料生産を有利に行えたか否かが第一の大きな要因であるというのが本書の論旨である。
うまいもん食ってる奴が勝つといったのは誰だったか。

有利な第一歩を踏み出しながら現在(一九九七年当時)までそれを維持していない文明――国家の例として、かつて肥沃三日月地帯であった土地に存在する国々と、中国が上げられている。
前者の理由としては、森林資源などの人為的破壊速度が自然の再生速度を上回ってしまったことがひとつ。西方からの侵略のたびに、権力の中枢が西方へと移動していったこと、アレクサンダーによってマケドニアへ、ローマ帝国ギリシャ侵略によってローマへ、ローマ帝国の滅亡によってヨーロッパへと移ろっていったことが述べられている。
古代中国は、ヨーロッパに比べて数千年は技術的に先進していたという。いわゆる大航海時代がはじまるよりも前に、中国はアフリカ大陸に到達していた。中国による外洋探検が継続して行われなかった理由は中国の政変にあり、船団派遣を後援していた宦官の派閥が政争に敗れたことにあるという。そして、勝利した派閥は歴史的に俯瞰すれば愚かな選択を為し続け、結果、自ら停滞を選んだ具合となる。ヨーロッパは現在に至るも統一的集権機構をもったことはなく、ある国で捨て去った技術が他国に残り、それが国家の生存戦略に有利であれば再度獲得する機会を得られもしたが、それに比べ、中国は広大な国土を単一政権が掌握する歴史が続いたため、権力者の選択が技術の完全な喪失につながりかねなかったという。

かつて地理という学問は記憶するだけのつまらない、個人的にはまったく意味のない学問であったが、歴史や科学技術などと複合した視点から俯瞰すると、実に面白い。
大学時代の教科書だった『科学技術史』は、当時はまったく興味もないままに捨て置いていたが、あるときふと見出していつか読もうと保存し続けた。ちょっとはマシなことを考えるようになったTRPGへの適用を目論んだわけだが、TRPGをやらなくなってしまって、機会を逸した具合となっている。
いまだ紐解かれぬまま手もとにあるが、そろそろ秋なのかもしれない。