でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『平和の失速(一)』

 たとえば、一部の女子労働者が、「五色の酒」をたしなむ自由女性とは裏腹の生活苦にあえいでいたことは、『万朝報』紙がつたえる東京紡績会社の「女工」の次の社長あて書簡にも、表示されている。
「社長さま、どうぞ私らを助けてください・・・・・・さく年までは朝の六時からばんの六時まで十二時かんづとめでありましたが、三月ごろから十八時かんづとめになりました・・・・・・夜の十一時からあしたのばんの六時まではたらかせます・・・・・・つかれてもやすむことはできません・・・・・・あたりまいにかせがせるやうにして下さい・・・・・・」

P.36

 元老政治は、あるいは元勲政治、薩長政治などとも呼ばれるが、つまりは明治十八年の第一次伊藤博文内閣いらいの元勲による盥回し的政権の連続を、さしている。
 (中略)
 ところで、なぜこのような元勲政治がつづいたかについては、維新の「功労」にもとづく薩長出身者の重用があるとともに、明治天皇の意向も作用していた、といえよう。
 大日本帝国憲法は議会政治を認めているが、歴代内閣は、いわゆる”超然内閣”として政党から離れた立場をとりつづけてきた。
 必要に応じて、とくに議会の協賛を得る限りで政党の協力を求めるが、国策の遂行のためには、政党政治は各党間の軋轢を政治に反映し政策も内閣がかわるたびに変更される恐れがある、と考えられたからである。

P.47

 ♪月が出た出た月が出た
    セメント会社の上に出た
  東京にや煙突が多いから
    さぞやお月さま煙たかろ
 とは、当時の流行演歌「奈良丸くずし」の一節である。
 演歌師添田唖蝉坊(あぜんぼう)の作詞・作曲のこの歌は、のちに太平洋戦争後に歌詞とメロディの一部が改訂され、「炭坑節」となって再び一般に愛唱されることになる。
 むろん、大正初年にそのような後年の事情は推理すべくもなかったが、ともかくも「月が出た出た・・・・・・」はひどく人気をあつめた。
 もともと「演歌」は、「演説」に対比されて政治、社会を風刺する性格のもので、「月」を新首相桂太郎元老、「煙」を反対勢力にみたてることができたからである。

P.117

「昔、ナポレオンが閲兵したとき、一兵士の胸に時計の鎖を発見した」
 出してみせろ、とのナポレオンの命令で兵士が鎖をひっぱると、先端についていたのは時計ではなく一発の銃弾だった。ナポレオンが、これで時刻がわかるのか、と問うと、兵士は、わかる、陛下のために死ぬ時がわかる、と応えた。

P.125

 ”蒙古王”の異名を持つ佐々木安五郎前代議士は、桂首相が計画中の新政党に党名を献上しよう、と、わめいた。
「すなわち、都々逸党と発せん」
 桂首相は第二次内閣で社会主義者「二十六人」を処罰し、二年前の台風により東京下町が洪水に見舞われたときは、「二十六のトンネル」をこえて軽井沢に非難した。
 さらに『二六新報』なる御用新聞をかかえ、いまや新党に参加する「腐敗漢」二十六人を数え、そして都々逸は「二十六文字」だからだ――という。

P.176

 途中、「大阪毎日新聞社」前の大国旗日本を無断借用した群衆は、中之島公園に入って演説会をひらこうとしたが、吹雪の公園での演説は、おこなう者も聴く者もつらい。
御用新聞をやっつけろ」
 と、東京の騒乱を報道する新聞をふりかざした一人がわめくと、寒さをこらえるために足ぶみしていた群衆は、やれ、やれ、と呼応して、国旗を先頭に北浜から今橋四丁目の「国民新聞社」大阪支局めざして走りだした。
 ただし、看板を川に投棄しようとしてはこんだものの、重いので路上に放置した。
 群衆は、さらに「ワツショ」「ワツショ」とかけ声をあげて、高麗橋五丁目の『報知新聞』大阪支局におしかけ、ここでも表戸、窓ガラスを突き破り、看板をたたき落とそうとした。看板は、しかし、一階の屋根の上に針金で固定され、旗竿で突いただけでははずれない。
 すると、四十歳くらいの男が、着ていた「厚司」を脱ぎすて、雪中にもろ肌ぬぎとなり、屋根にのぼったとみると、
「オンドリヤア」
 と看板にだきつき、そのまま屋根瓦をふみ砕いて地上に落下した。
「アンさん、これが浪花男の意地だすねン」
 大地にうちつけてふらつく頭をふりながら胸をはる四十男に、青年たちは歓声をあびせた。
「オツサン。日露戦争の勇士よりも立派や」
 うなずき、より一層に胸をはった四十男は、川に投げ込んだる、と看板をかつごうとしたが、あまりの重さに腰くだけとなって中止した。
 群衆は、つづいて南難波橋の新党に参加した武内作平代議士宅をおそい、屋根瓦を投げる同家の書生と「瓦礫合戦」を演じたのち、「大坂朝報社」を包囲した。

P.279

 天津の「支那駐屯軍」第二大隊の川崎亨一大尉も、七月下旬、山東省調査を命令され、通訳張武男とともに済南から兗州(えんしゅう)にむかい、その日、八月五日、済南に帰る車中で中国兵の尋問をうけた。
 大尉が所持していた天津総領事館発行の「護照」(旅券)は、大尉の身分が「商人」と記載されたものであったが、その上に紙をはって「軍人」と書かれていた。
 「商人」は発給のさいの誤記で、気づいた大尉は訂正を申し入れたが、出発間際であったため、天津総領事小幡酉吉は、中国側に通告しておくから自分で書き直してよい、と大尉にいい、そのまま忘れてしまった。
 中国兵は、江蘇都督張勲の指揮下の武衛前軍に所属していたが、日本が「第二革命」で北京政府の的・南軍(孫文派)を支援したのを承知している。「商人」か「軍人」か不審な大尉を、南軍のスパイと疑ったのである。

P.415

 テレビはむろんのこと、ラジオもない当時における新聞の影響力は、大きい。しかも、当時の新聞は、「善悪の判断」を下すオピニオン・リーダーを自任して記述するので、一般市民は、その論旨を「公論」視してうけいれる傾向が強かった。
 それだけに、新聞が政府、政党、特定の団体などの立場を代弁するものであっても、新聞にのっているから、というだけで内容をうのみにする市民も少なくなく、まして大新聞や複数の新聞がキャンペーンなみに同一論調を展開するときは、被影響者の数は急増する。
 つまりは「世論」の形成であり、そこに有志団体の演説会という口コミ刺戟と政党の動きが加われば、政治運動に成長しやすい。
 そして、左翼勢力が存在しないにひとしい当時の政治運動の性格は、桂太郎内閣倒壊劇にみられるように、「閥族政治」や「官尊民卑」に対する不満を基礎にする”尊皇的反政府”といえる。
 南京事件に接した新聞が、政府の消極姿勢に遭遇すると、すかさず論点を政府攻撃に転換させたのも、そういたった一般市民の思潮の代表と指導者を自負する新聞の「論理」であった、ともみなし得るであろう。
 ただし、「公器」である以上、その「論理」の展開には冷静さが要求されるはずだが、新聞の態度は、その論調が告げるように、自身の興奮にあわせて一般にも「興奮ノ掻立ト攪拌」をこころみようとする。

P.439

 午後十時すぎ、首相官邸で閣議に参席していた内相原敬に、秘書官高橋元威がメモをわたした。
 政友会代議士福井三郎が面会をもとめている、緊要事だとのことだ、という。
 中座して会うと、福井代議士は、前首相桂太郎大将を見舞ってきた、と、その様子を語り、もはや大将が危篤におちいっている旨を告げて勧説した。
「桂既に如此悲惨の状態にある以上は、もはや政略も何もなからん。生前一刻も早く(今直ぐにも)往訪ありては如何」
 それは考えものだ、というのが、原内相の反応であった。
「(桂大将にたいしては)個人としても政党としても、私怨などは毛頭之無し」
 しかし、政敵関係にあるのは間違いないし、現に原内相は政友会の”実質的総裁”として桂内閣打倒をリードした。また、政友会は大将が組織する立憲同志会と「敵対」している。
 福井代議士は、大将は口がきけず、面会謝絶状態にあるというが、なぜとくに「余のみに面会」しようとするのか・・・・・・。
 原内相は、「一考」すると応えて福井代議士を帰したが、首をひねった。
「何か政略上の考案をなし居りて余に面会を求め居たるにても之あらん。少しく不可解の事なり」
 閣議のあと、内相は山本権兵衛首相に福井代議士の申し入れについて話し、このさい「世上の疑惑」をまねく恐れもあるので面会しないことにする、と述べて、
「昨年来、桂の行動は甚だ当を得ざりしこと、並に党としても箇人としても一切恩義誼等は之なき次第を物語り置けり」
 「私怨」はないにせよ、公憤は感ずるし嫌いだ、というにひとしい。

P.507

 鹿角所長は、谷口知事に「大森式微動計」の購入を要請し、知事も県議会に予算を請求したが、あっさりと否決されてしまった。
 代金は「百四十円」であったが、「科学ニ関心乏シキ」議員たちは、財政不足のおりからその程度の支出も「不要不急」と判定したのである。

P.534

「・・・・・・国民は、現内閣の存在を以て、帝国の神聖を汚し国家の運命を危うくするものと認む。吾人は、閣臣の速に自ら処決し罪を天下に謝せんことを、望む」
 青年団体「憤虎団」員五人が、決議文を首相に伝達する任務を与えられて出発した。
 ところが、一行が首相官邸に到着して来意を告げると、守衛は、「憤虎団」を”ウンコ団”と聞きとり、「汚穢汲み取りの請願」と解釈してしまった。
 五人が、いくら字解をして説明しても、そういえばお前ら臭うな、と笑殺し、取り次ごうともしない。

P.611

 

 無知をひけらかすことになるが、これまで、大正というと、鹿鳴館、『ハイカラさんが通る』、『サクラ大戦』など、どちらかというと優雅なイメージを彷彿とさせられるのみであったが、本書によってそれは画期的に刷新された。

 第一巻は、明治天皇崩御から大正三年の山本内閣崩までを語っている。
 壊陸軍予算問題による西園寺内閣倒閣、短命に終わった第三次桂内閣、シーメンス事件による山本内閣倒閣、流産した清浦子爵内閣など、元老政治、軍閥が政治を迷走させていた。明治維新当時は、未知かつ未熟な民主主義というものへの不安から、有識者らが国家を主導するものとして置いた役目がいつしか機能不全に陥ってしまっていたということになる。制度そのもの善し悪しではなく、制度は疲弊するものだということだ。
 政党というものが力をつけてきた時代のことである。だがしかし、野党というものはこのときすでにまともに機能しておらず、政権への不信任しか眼中にないようである。スピードワゴンの名台詞を思い出すを禁じ得ない。
 歴史の授業で習ったはずだが、我が不幸な脳は当時から既に、出来事と時系列をあやふやにしか記憶していない。国内では桜島の噴火、国際的な事件としては、米国の排日法、対支三カ条などがあった時代のことである。

 シベリア出兵という、よくしらない出来事への関心から着手に至ったが、全五巻、推定4000ページのシリーズをよく記憶する術をもたぬ身の上の、備忘録として記す。