でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『大山倍達正伝』

「おそらくこれは・・・我ら闘神を仏法に帰依させるための、大いなる摂受の法だったのだ」
「なん・・・だと!?」

羅喉羅阿修羅王と、天竜八部衆・天王の末期の会話

空手バカ一代』と『空手戦争』を明確な区別なしに読んでいたらしい少年の日々のキオク。
影丸譲也作画による作中で、芦原英幸が腐りかけた野菜を肥桶に漬けたシーンがやけに鮮烈な印象として残っている。このシーンの葦原を、大山と勘違いしていたことに気づいたのは、先日『空手バカ一代』を初めて通読したときのことだった。

かつて、そして今も、強くなることへの渇望をもったことはない。ゆえに、昭和の格闘技的偉人たちの逸話については、読んでいる最中は少年らしく熱狂したものの、読み終えては残った熱は温度を残さず冷め、その真偽を問うことはなかった。
作家というものの善性を信じて疑わなかった頃のことである。

大山倍達という人物に対する知識は、同時代の日本人の平均よりは若干上であろうが特に詳しいわけではない。
対する姿勢は、ほぼニュートラル。伝説もあれば、悪評もあることは耳にしていたが、特に大きく動揺することはなく、中立、ややネガティブだったかもしれない。

つまり、そも、このような書物を積極的に読もうという志を持たぬ身の上だということである。
評伝を読むものは、善しにつけ悪しきにつけ、対象への興味が動機となろう。個人的にその動機は希薄であり、日本の片隅でひっそりと盛大にもりあがっている情報集積所にて、とあるきっかけを得ることがなければ、そして日本の片隅でひっそりと綴られている日記にてご紹介をいただかなければ、興味を喚起されることもなく、存在を知ることもなく、読書に至ることもなかったかもしれない。

本書は二部構成から成る。
前半は塚本佳子、後半は小島一志。どちらの著者も人となりをまったく知らない。
前半は、日本が関わった戦争について、おもに日本海側の情勢を織り込んで展開する。個人的には、大山倍達伝を追っていたら、いつのまにか昭和初期の路地裏につれこまれてしまったというような印象がまずあった。
それはよい。まったく見知らぬ世界というわけでもない。
しかし、読み進めていくうちに、大山倍達にではなく、著者に対する考察が脳裏をよぎるようになった。まず感じたのは著者が抱く憎悪あるいは嫌悪と表現しても差し支えないものであり、次に感じたのはそれを糊塗するかのような愛である。愛というよりは諦めなのかもしれない。「なにを!」といきり立つも、結局は「仕方ない」とばかりに力なく座り込むしかない。そんな印象である。
前半部の著者は、編集業界に身をおくようになり、業務命令に従って空手、極真と関わるようになったという。自己申告によれば空手は未経験であり、当初は空手について勉強することもなかった。仕事のため、極真の試合に足を運ぶようになり、参加する選手たちの真摯な姿に打たれて自らの姿勢を改めていったのだという。ピュアな大山信者では決してない、という立場の表明であろうか。

後半の著者、小島一志は、極真空手を学んだ人物であり、人生において深く関わり、総裁とも懇意にしていたという。
読前に目にしたレビューでは、擁護の論調であるとか、思い出日記であるとかいう批評があったがそのようには感じなかった。調査結果から得た「真実」に対しては前半部に譲るという態度をとっている向きはあるが、極真というものをピュアに信じていた若き日々のことはそのときの感性のままに、社会人としての立地を得てからはそのように、文章を連ねているという印象である。
前半とは真逆となるが、こちらは愛の中に若干の憎が感じられる。尊敬し、崇拝とまでいえるかもしれない念を抱くを禁じえなかった師に対し、等身大の人間像を発見して衝撃を覚えつつ、なお親しみを抱く。そういう経験に覚えがあるならば、共感できるかもしれないものだ。

本書は、年代史ではない。
トピックごとに幾度も時代を上っては下り、サブトピックでまた逆行し順行する。これを難とする評もあったが個人的にはそうではなく、とはいえ、角度を変えて照射するならまだしも、同じ角度の著述を幾度も繰り返し読むことを強要する構成には賛同はいたしかねる。

さておき。
我が身の「大山倍達」観は、読前と等しくニュートラルである。だが、我が身には乏しかった情報を補ったことで、変化がなかったわけではない。

強い男がいた――

それだけでよいのではないかと思えるようになったことだ。


一点、気になったことがある。
先立って読んだ『夕やけを見ていた男』と本書における梶原一騎の人物像の差異である。前者ではケンカ十段と評されており、本書ではもやしっ子だったといわれている。
この差はどこから発生したのだろうか。