でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『ザナドゥーへの道』

保存書庫から貸出希望図書が探し出されるまでのあいだ、貸出カウンターの近傍をうろついた。
カウンター近傍には人気図書、推薦図書、新聞、婦人週刊誌?と並んで新着図書のコーナーがある。なにげなく眺めてタイトルに目を引かれ、ぱらっとめくったページの「シナの防具」という語が目に入り、装丁ともあいまって読んでみようと思い立った。

ザナドゥという言葉にはじめて巡り合ったのはPC-88版『ドラゴンスレイヤー2』すなわち『XANADU』である。不思議な語感をもつその語について、その時はただ心に響いたのみだった。
『無限コンチェルト』で再び出会い、クーブラ・カーンおよびコールリッジというキーワードを得て、その名を冠する作品が存在することを知ったが、コールリッジが阿片の夢の中に見たという未完の詩『クーブラ・カーン』は詩心のない我が身には解せぬものであった。
元の夏季の都、上都(Shangdu)がモデルだというが、あるいは由縁不明な同地への個人的憧憬と無縁ではないのかもしれない。

タイトル通りの内容を期待して読みすすめ、これはどういう本なのかと、読了まで分類に困った。ザナドゥーのザの字も出てこない。
あとがきには、こう記されている。

 とはいえ、本書における「ザナドゥー」は、それほど重たい意味を背負っているわけではなく、オックスフォード英語辞典が「ほとんど手がとどかぬほどぜいたくな、あるいは美しい場所についての感じをつたえるのに用いられる」と述べているのに近いであろう。それでも、本書の場合は「西から見た東の場所」であり、「ぜいたくな、あるいは美しい場所」でなくともよいけれども、「手がとどかぬ」あるいは「到達不可能な場所」といった程度の限定はゆるされるであろう。

P.230より

どうやら、西洋から見た神秘的な古代世界の東洋を物語るという意味に用いられているようであり、そのような内容を伴っている。また、情報の精度や伝搬速度の遅さが、意図せずして事実を伝説に変えてしまった様なども語られている。
一例をあげれば、金に追われた遼の世継ぎが西方に逃れて西遼を興し、これがイスラム朝を脅かしたことがあった。これが「ペルシアやアルメニアよりはるか東に、プレスビュテル・ヨハネス、すなわち英語読みではプレスター・ジョンと名乗る王が住んでいるが、その王がペルシア王に勝利した」としてキリスト教社会に伝わった、など。


遠いようで存外近かったらしい古代世界の、数奇な運命をたどった人々の姿を垣間見れば、漂着する男アドル・クリスティーンのありかたや、父親の偉業をごく短期間で凌駕してしまったジャスティンの生きざまは、ある意味肯定できるものなのかもしれないと思ったり思わなかったり。