でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

ルネサンスの世渡り術

学研のまんがでレオナルド・ダ・ヴィンチの逸話はよく読むなどしていた程度で、同時代について執拗な関心はない。それでもルネサンスやイタリアについてはいくばくか読んでいたが、それも20年位前のこと、もういろいろと忘れてしまった。

本書はエッセイで、各話の冒頭に1ページの漫画と幾つかの挿絵がある。
ほぼすべて芸術家の逸話からなり、前述したように素養のない読者でも大いに楽しめた。最終話だけ実業家で、本書のタイトルは彼のためにつけられたのではないかと思ったり思わなかったり。

経済学はどのように世界を歪めたのか 経済ポピュリズムの時代

「データサイエンス」と言われる分野の急速な発展は、経済学が多用してきた仮説演繹法あるいは純粋な演繹的推論による理論構築を、枚挙的帰納法による分析が駆逐していくプロセスであると言えるかもしれない。RBC理論からDSGEモデルに至る過去30年以上にわたる主流派のマクロ経済学は、非現実的かつ強力な仮定からスタートした純粋に演繹的な理論を、さまざまな統計分析手法を使用した仮説演繹法のような帰納法的推論によって現実データに対する説明力を強引に持たせるようにした理論であると言える。

P.400

 

バブルの頃は学生で、それがどのようなものであるのか大雑把にしか知らなかった。たまにTVで「バブルはいつはじけるか」的な警鐘を鳴らす論調を見ることもあったが、それが憂慮されていないということは、なにかしらコントロールされているんだろうと思っていた。

はじけてから数年、地方都市には影響は目に見える形で波及していなかったように思う。父親がマンションを建て、その返済が自分の肩にかかるとはっきり認識してもなお、経済には興味が持てなかった。

地元を離れて就職し、地元に戻ったとき、バブル消滅の影響が強く感じられた。マンションとなり果てた自宅は明らかにその遺物であったし、それを計画した父も、計画の手助けをした工務店も銀行も、誰もまじめに計画を考えていなかったことがはっきりと理解できた。それでも経済学には興味は抱かなかった。

リーマンショックを経てようやく経済学に疑問を抱くようになった。
バブルという例があったのに、似たような例を繰り返すことを許したのは何故か。経済学というものが機能しているなら、そういうことは許さないのではないのか。

まず着手したのは、現代日本がどうやって形成されたのかを知ることだった。これは継続中だが、今のところ、大航海時代と西欧の帝国主義が前代の日本を築いたという理解に落ち着いている。昭和を語るにはそれを踏まえる必要があり、現段階では、昭和までの日本はそれなりにうまくやってきたのではないかとも感じている。
この過程で、バブルの前段たるプラザ合意というものにも触れた。

バブルというものについて学び始めたのは消滅から三十年も過ぎた後のことで、その時、経済学には()が足りないと思うようになった。あるいは、学問を名乗るなという強い思いを抱くようになった。哲学も学を冠してほしくないのだが、思想と読み替えることで心の平静が保たれる。経済学にはそれができないので、経済思想あるいは経済研究と名を変えるべきではないかと思う。いずれにせよ、現実社会に適用できるレベルの学問ではない。
国家や人々の動向に関与できるものではないと、はっきりと烙印を押されるべきである。

個人的に接してきた他の学問と比べると、1990年代のAI研究に似ている。パラメータ調整的な操作が主で、これが学問なん?と強く感じられたものだ。現実に寄せるための恣意的すぎる操作を研究と称するのは、本書でいうところの「合理的経済人」のような極端なモデルではなかったにせよ、だいぶ強引であったという印象がある。

そういえば、数年前のこと。「景気が悪い」という誰かの発現に対して、そんな発言をするのは株をやってないからだという反論があった。ゲーム作家であり文筆家である人物の発言だ。近頃はそういう発言を見なくなったのだが、単に話題が出ないだけか。はたまた、買い支えられている株価をして景気動向を語ることに思うところがあったのだろうか。
 

関連書籍:
『無縁・公界・楽』網野善彦 平凡社選書1978年
 引用元より:網野の著作は多数に及ぶが、周縁と市場ということでは『無縁・公界・楽』などが有名。
『ライアーズ・ポーカー』マイケル・ルイス 角川書店1990年

オーバーロード 3~7

PvPには大していい思い出がない。
WoWをPvP鯖で開始したのはEQで一緒だったギルメンがいたからで、Hordeを選んだのも同じ理由による。CataとMoPの間の頃だった。PvP鯖というものがどういうものを意味するのか、あまりよくわかっていなかった。レベル差が全く考慮されないPvPが発生すると理解したのはOutlandでソロレベリングしているときだったと思う。真っ赤な奴に瞬殺されて、死体回収に行ってさらにボコられた。
その鯖ではHordeが優勢で、Alianceは我が身が受けた仕打ちを日常にしていると理解したのは随分と後のことだ。つまり、憂さ晴らしにボコられたでござるね。

このようなことがあったからか、やがてPvPマッチも嗜むようになった。腕はよくなく、装備と野良メンバーに依存するようなありさまだったが、一つだけ記憶に残る単独快勝がある。
アチーブを狙って釣り大会にソロで臨んだ時のこと、奇襲を受けた。ああ、死んだと思ったが、なかなか死なない。スタンを受けた自キャラの頭に、回転しながらゆっくりと落ちてくるハンマーが見える。Pallyだと理解した。AllyのPallyが一生懸命殴っているが、耐えている。貧弱ではあったが、PvP装備に身を固めていたのが功を奏したのか。MOBに対して弱くなるので嫌っていたが、PvPではきっちり働くと理解したのはその時だったと思う。MoPの後半くらいだったか。
死なないので、抵抗することにした。Daze効果を発揮するウォリアーのスキルを使用し、相手が行動不能に陥っているのをよそ目に、お薬を飲んで、釣竿を武器に持ち替る。距離を取ってチャージ、ジャンプで離脱してチャージ。普段はうまく使えないテクニックが、その時はうまく使えた。脳内麻薬分泌によって、プレイヤーがドーピングされたのかもしれない。そのときだけ、コスモが目覚めたのかもしれない。FurryなTwo-Handed両手もちスタイルで、ほぼ一方的にボコった。勝利して釣りを再開する。視野を広めにとって全周警戒していたところ、Pallyが装備を拾いに来た。まだやるか? という意思表示にキャラの向きを変えたら、相手がびくっと反応した。そのまま監視、相手はすごすごという様子で装備を回収して去った。
PvPには勝利したが、釣り大会に入賞するどころではなかったから、相手の勝ちかもしれない。

そんなことを、対シャルティア戦は思い出させてくれた。
この作品を好む大きな理由は、自己の体験が投影できることにあると思う。あと、アンデッド好きという個人的嗜好にフィットするところ。

とはいえ、好きなところとそうでないところが入り交じり、ちょっと微妙でも好きという評価である。アニメで入ったせいかもしれない。一つは説明不足というか、事情がよくわからないところとか、解釈に困るところがあること。もう一つは作品の個性か近年の風潮か、脇の描写が長すぎること。

前者の例の一つがコキュートス。キャラは嫌いではない。設定の矛盾と感じられたものがどうにも飲み込めなかった。
『階層守護者』と『武人』というキーワードから当初想起させられたのは、戦上手である。ところが、対リザードマン戦ではそのような印象が覆される描写がなされたのに、その理由についてはあいまいに感じられた。アニメでもアインズの意図はわかったが、『階層守護者』と『武人』という言葉に対する描写の矛盾は理解できなかった。『武人』だけだったなら、そうは思わなかったかもしれない。『階層守護者』という立場には必ずしも指揮能力を伴うものではないという説明があればよかったのかもしれない。アルベドデミウルゴスと同等という描写がよくなかったのかもしれない。
ともあれ、小説の描写でどのような「設定」がなされているかなんとなく見えて解消されるまでは、とてももやもやする箇所だった。個として強く、力押しはできるが、戦略、戦術は嗜まない。そういう『武人』だったと理解するまでは。

後者については、王国側の人々というか、非アインズサイド全般。俺はアインズの蹂躙が見てえんだよ。パンピー邪魔なんだよ。ってカンジ? 蹂躙される側の描写、事情があるから、蹂躙がいっそう映えるのだろうという意図は理解しつつも、多くのページを費やすほどの描写は不要であると思うのである。一章でも多い。あんなに分厚い本なのに、という思いがある。
本作品に限ったことでなく、近年の作品は、小説、漫画とも描写過多で、どうでもいいシーン、大ゴマ、中身のない大見得が多すぎる。話を省略せず、いちいち描くというのは、嗜好なのかテクニック不足なのかというと、後者に感じられる。本作品については大見得がないのは好評価だ。アインズの決め台詞が相当するが、抑制されていてとてもよい。
5~6巻は著者にもストレスだったのだろうか。7巻のキレっぷりから、そんなことを思わなくもない。

これまで『オーバーロード』原作小説に手を出してこなかった大きな理由は、アニメ三期まで見て、終わらない作品だと感じられたことが大きい。プレイヤーとの遭遇、世界の謎を解くなどの展開はあるにせよ、なんらかの終着点に辿り着く気配がまるで見えない。
終わらない作品は嫌いである。よく終わってこそ作品だと思う。今面白ければ良いという主義は、作品を腐らせる毒である。ファンレターという毒、人気という毒がいかに作品をゆがませるか。だから、連載作品はほとんど読まなくなってしまった。

かつて好きだった作品をけなすのは自己の否定だという。アホか。大河ファンタジー小説で始まったものが20巻あたりからホモ小説になってしまって愛し続けられるものか。看板変えるならスピンオフか別のでやれ。本編終わらせてからな。

ということがないように、祈るばかりである。

シャドーハウス

なんか黙っていられないのでチラ裏。

序盤の空気系。ゴーメンガーストを思わせる雰囲気はとてもよかった。好きになれそうだと思えた。

お披露目以降。
元からの構想なのか、テコ入れがあったのか。ジャンプ展開。進撃も入ってる。
そんなカンジになっちゃって、とても残念。

沙耶の唄

ついったーかなんかで知った時、クトゥルフ物だと併記されていたような気がしてそのつもりで読んだのだが、読後、そうではない印象を得て調べてみたら、特にクトゥルフ物と謳っているわけではなかった。推薦者の印象を真に受けてしまったか、誤解したことになる。

クトゥルフに初めて触れたのはTRPG関連の書籍で、当時周囲で『クトゥルフの呼び声』が遊ばれることはなかったから、青土社のハードカバーを一通り読んだくらいの知識しかない。四大にあてはめたわかりやすい作品が好みだったので、どんな読者であったかは推して知るべし。しかし十代に植え付けられた観念だけはしぶとく残り、銃器で対抗できてしまうクトゥルフ作品はほとんど反射的に嫌うようになって現在に至る。
同じ頃、クトゥルフ物でもある『魔界水滸伝』ははじめ楽しんで読んでいたが、前述の理由で個人的に唾棄すべき作品になり下がったことは余談である。自キャラを立てるためだけに神話を汚すんじゃねえ。

本作品は、耽美な序章から始まり、セカイ系で終わる。
途中、伝統的クトゥルフ物展開になり、ハリウッドになる。概ね良い印象だが、丹保凉子医師の設定が苦しいと感じられ、個人的には物語構造上最大のウィークポイントになっていると感じる。

薦める際は、クトゥルフをモチーフにしているがクトゥルフに連なる作品でないという情報も併記した方が良いと感じた次第。

オーバーロード 2 漆黒の戦士

アインズの当面の目標、慎重に自身の置かれた立場を探るという意図はアニメ版でもよく理解できたが、エピソードの比重がオーバーロードというタイトルと比べて軽すぎるように感じられ、あまり良い印象は抱けなかった。
この我儘を言葉にすれば「オーバーロードオーバーロードたる振る舞いだけ見たかった」ということになる。オーバーロードという言葉に期待していたのは天上の戦いとか上位者への挑戦みたいなもので、当時なにも知らなかったため、変な期待をしてしまったことになる。

一期13話で小説三巻分、知ってしまえば悪い配分ではない。アインズの慎重さと強さを明示する段階なのだろうが、展開が遅くてもにょりもする。

本作品に限ったことではなく、また小説作品、漫画もそうなのだが、近年の創作は昔なら短編で済ませた内容を長く続ける傾向があり、読むのがつらい。大した内容でないのに、大エピソード化されるというか。

放置プレイを長らく何度もいたされた身としては、面白いと思える作品でも、完結の見込みがないと手放してしまうようになった。そうさせてほしくない。

夜の大海の中で

BLAME!』の元ネタみたいなツイートが流れてきたので興味を惹かれて読んだのだが、そもそも『BLAME!』はナナメ読みで終始わけわかんねーと思いながら読んだので、まったくピンとこなかった。

発刊年ではなく、個人的読書履歴の順で印象の重複とかオマージュを感じる作品をあげると『強殖装甲ガイバー』『ストーカー』『ニューロマンサー』『2010年宇宙の旅』『エンディミオンの覚醒』あたりが思いつく。挙げても詮無いことだが。

妙に文学めいていたり、当時のというか、著者が若いころに印象を受けたのであろうヒッピー文化を肯定的に描いていたり、そういうところがSFというレーベルに属する作品として純粋に楽しみにくい。

あとがきによれば短編を再構成した作品ということだが、物語はこの巻で完結らしきエピソードもなく、なにかを予感させる引きで締めくくられている。

ファーストコンタクトものだが、目新しさは感じられない。これは作品が悪いのではなく、読んだ時期が悪いとしか言いようがない。

技術的な未来予測は本作品では重要ではないようで、情報技術はソフトウェアやデータよりではなく、ハードウェアよりである。上梓が1977年だからまあ仕方ない。

閉所の恐怖感だけは良く描写されていたと思う。閉所恐怖症を自覚したことはないのだが、読んでいてその部分に怖気をふるってしまった。