でぃするだいありー?

そんな気はないんだれど、でぃすっちゃってる。 でぃすでれ?

読物 『新書アフリカ史』

 しかしヨーロッパにおける産業革命の進展は、アフリカにより大きな富の可能性を求め始めた。奴隷でも象牙でもない商品を要求したのである。ニジェール川のデルタ地方では、それはアブラヤシであり、セネガンビア地方では落花生であった。これらの作物からとれる油は、文字どおり産業革命の潤滑油として重宝された。列車の車輪の動きを最も円滑に制御できる機械油として、あるいは石鹸やロウソク、マーガリンの原料として、ヤシ油やピーナッツ油は引っ張りだこの人気商品となった。一八一〇年には一〇〇〇トンだった油やしの輸出高は、一八五五年には四万トンを超えた。
 こうした状況を見たヨーロッパ列強は、沿岸部の拠点の確保だけではもはや満足しなくなった。内陸に押し入り領土を切り取ることを欲し始めたのである。その露払いが探検家であり、キリスト教の宣教師であった。彼らは内陸の町や村で、首長や長老に出会うとスポンサーの国旗を渡し、ガラス玉や金属器をプレゼントして保護を約束した。するとその地域は、もうその国の勢力圏ということになるのである。たとえばベルギーのレオポルド二世をスポンサーにもつスタンレーは、一八七九年からのコンゴ川探検で四〇の基地を築き、四〇〇余りの条約を土地の首長と結んだ。その結果、コンゴ全域はレオポルド二世の勢力圏となり、王の私領「コンゴ自由国」の成立を導いた。
 切り取り放題の状態を憂慮した列強は、秩序だったアフリカ争奪のための会議を開いた。それが一八八四年一一月から翌年二月まで続くベルリン会議である。会議にはアフリカの領土を奪おうとする一三の国が参加した。(レオポルド二世の私的利害を代表する今後国際協会もオブザーバーとして参加)。一三の国とは、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ、ロシア、オランダ、オーストリアハンガリー、スペイン、ポルトガルスウェーデンノルウェーオスマン・トルコ、それにベルギーであった。会議はもともとコンゴ地域における、列強の領土分捕り合戦の調停を意図してビスマルクが呼びかけた。レオポルド二世のロビー活動の成果もあって、列強はコンゴ自由国の権益を承認するとともに、コンゴ川の自由航行権とコンゴ盆地の自由貿易地域化を図った。それとともに、紛争の種であったニジェール川についても自由航行が認められた。
 ベルリン会議では、アフリカ争奪のための二大基本原則が合意される。それは勢力範囲の原則と実効支配の原則である。前者は、沿岸部の占領が自動的に後背地の所有権を生み出すという勝手なものだ。また他国の権益のない場所を勢力圏に入れるには、列強に通告しさえすればよいことになった。後者の原則は、勢力下に置いた地域では他国の権益(通商、航行)を保護できる実体的権力を打ち立てなければならないというおのである。
 アフリカ人の存在を見事に無視したこの合意について、ケニア人の歴史家オゴトはこう述べている。「一大陸の国家がより集まって、他の大陸の分割と占領について、これほど図々しく語ることが正当化されると考えたというのは、世界史に先例がない。」

P.286

エジプトをしか、アフリカの古代文明を知らないと気づいたのがきっかけだった。他になんぞないのかと調べて本書に出会った。
本書は1997年の刊行であり、最新の情報ではないにせよ、他にこれといった書も見つからなかったので、端緒になればと思い手に取った。

まず、アフリカの古代については、新発見はあるものの、1997年の段階ではよくわかっていなかったようだ。割と頻繁に発生する気候変動が文明の固定化を妨げたのかもしれない。現在はどうなんだろう。

次に、本書の大半はアフリカの植民地化とその影響について語られている。
ハルノートなんぞは「国際社会」による異端裁判でしかなかったことがよくわかる内容だといえる。

そもそもの目的は達成できず、脳内で既知としている近代日本史と対照するを禁じ得ず読み進めることになった。興味深い内容だった。

新書アフリカ史 (講談社現代新書)
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